なじみのモリシマアカシアが根元から無残に折れて
ヒイラギナンテンにのしかかるように倒れていた。
しばらくその場にたたずんで、
8年ほど続いたその木との淡い交流に思いをはせた。
40ヘクタール以上ある公園のなかで、
知る限りでは、ただ1本のモリシマアカシアだった。
直径50cmはある老木で、樹皮は黒ずんで縦割れが進み、
触るとぼろっと落ちるくらいだった。
初めて見たときから、5mほどの高さで幹は折れて無く、
その幹から太い枝が横に伸び、葉や花をたくさんつけていた。
ある年、積雪のあとに見に行くと、枝の1本が雪の重みで折れていた。
そして、もう1本の枝だけが残った。
毎年5月半ばには、その1本の枝に、薄黄色のミモザの花を咲かせた。
ただ、今年はその花も、例年より白みがかっていたように思う。
その木の在る場所は、広葉樹の林のなかで、
威容の割にはあまり目立たなかった。
土日の朝の自分なりのウオーキングコースに当たるところなので、
モリシマアカシアと隣にある細長いエンジュにはタッチをして、
心のなかで挨拶をしていた。
その行為は、内海隆一郎著「木に挨拶をする」という本を読んでいたからだ。
本の帯にある、“自然の不思議な力、人間の秘められた能力”にちなんだ
素敵な随筆集である。
書名になっている冒頭の一篇は、著者が早朝散歩の際に
ある老紳士がきまって1本のザクロの老樹に挨拶をすることから始まる。
彼は、「やあ、おはよう。」と声をかけるばかりか、
雑草を踏みわけて行き、幹を両手で撫でながら話かける。
聞けば、3年前から朝の散歩を始めたが、丸1年たったころ、
しきりと誰かに声をかけられているような気がしたという。
「間もなくこの木と分かりました。わたしが梢を振りあおぐと、
その声が消えるんです、やっと気がついたねというように。」
それから彼は声かけて挨拶するようになった。
木も、例の声で挨拶を返すという。
「だんだん親しくなって、いまじゃこうして幹を撫でて
話しかけるようになりましてね。
・・・奇妙なことですが、そうするようになってから、
この二年のあいだ持病のリューマチがまったく治まっています」
著者は、時々この木の前を通るが、一度も呼びかけられたことがない。
「・・・やはり人を選ぶんでしょうか」と聞けば、老紳士は
「そんなことないと思いますよ。毎朝、挨拶していれば、
きっと応えてくれます」
それから著者は、ザクロの木に声をかけている。
「おはようございます。今朝もお元気そうで何よりですね」
敬語を使うのは、ザクロのほうが年長だからだ。
「今朝までのところ、まだ応答はない。」というところで
この一篇を終えている。
「木に挨拶をする」という本には、ほかにも不思議で魅力的な話が
いくつも掲載されている。
たとえば、「少女の指針」という一篇は、
1991年12月に、12歳で夭折した坪田愛華という少女の話だ。
彼女は、「地球の秘密」という漫画のリポートを書きあげた夜に、
脳内出血で急死した。
それまでは健康そのものであり、急死の兆候などまったく無かったという。
内海氏は、旧知の役場の職員から、その町に住んでいた少女の話を聞き、
彼女のリポートを見たいと願うが、一方で家族にとっては大事な遺品なので
それは望めないと半ばあきらめていた。
ところが、それから1週間もしないうちに、新聞で大きく取り上げられ、
全国から教材に使いたいという依頼が両親のもとに殺到したという。
すぐに印刷され、それでも足りずに増刷が続けられた。
著者もそのリポートをみて、完成度の高さに驚いている。
この一篇が正確にはいつ書かれたかはわからないが、
内海著書の発行日が1992年11月20日だから、少女の死から1年と経っていない。
その後、かのリポートは、1992年4月には英訳で五千部が発行され、
翌年には国連で受賞し、現在までに11カ国語、60万部が発行、
2004年には、遂に一般書籍化された。
著者は、それらの動きを先取りして、この一篇に紹介している。
このような不思議な話は、無理に集めたというより、
著者の内海隆一郎氏のもとに自然に集まってきたような気がする。
自然や人に不思議を感じるような心をもった人にこそ、
そのような話が集まってきて、作品として陽の目を見るのだ。
「木に挨拶をする」のあとがきには、ザクロの木の後日談が載っている。
「あれから三ヶ月ほどして、とつぜん空き地にブルドーザーが入った。
わたしが散歩の途中で見たときは、
すでにザクロは無残にも押し倒されたあとだった。
その日を境に、ザクロと親しくしていた老紳士とも出会うことがなくなった。」
この文章には、胸を衝かれる。
・・・
僕が、モリシマアカシアが倒れているのを発見した、まさにその日、
帰宅して朝刊を開くと、内海隆一郎氏が死亡欄に小さく出ていた。
この一事は、僕にとって、長く記憶に残るだろう。
内海氏は最後まで、不思議な因縁を感じる人だった。
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