父から1冊の本をもらった。
カバー代わりに、薄い茶色の紙にくるまれており、
小口が水でふやけてゴワゴワとなり、かつ日焼けで茶色に変色している。
きれいとはとても言い難い。
紙カバーの表紙に、薄い鉛筆の父の字で、以下のように書かれていた。
“形見分け
売る時は
神田古書店 泰川堂へ(東京資料)
稀コウ本”
背に、丁寧でもない毛筆で、「素白随筆」とある。
著者は、岩本堅一。号が「素白」である。
明治16年(1883年)に東京で生まれ、
早稲田大学の国文科の教授など生涯を教員として過ごし、
昭和36年(1961年)に亡くなった。
「素白随筆」は、1963年刊。単行本400ページを超える量。
読み応えがあるが、ひとつひとつの随筆は長くない。
江戸から続いた風情や文化が、明治の近代化政策と
関東大震災と戦災とで失われてしまったことを偲ぶ内容となっている。
そのなかで、「東海道品川宿」と題する13篇があり、特に味わい深い。
品川は、江戸から東海道を下るところの第一の宿である。
街道の出口にあたる宿として他に、陸羽街道は千住、甲州街道は新宿、
中山道は板橋であるが、それらの宿は震災と戦火で当時の面影は既になく、
ただ品川だけは、この随筆が書かれた昭和30年代までは
海に沿った通り筋が昔のまま残っていたという。
著者は、明治中期の品川に育ち、少年の得を生かして、
“如何なる場所へもはいつて行き、如何なる人物の言葉も逃さず聞”き、
“少年の眼”で“鋭く物を直観”した。
むかし、品川には、大小の妓楼が数多くあった。
廓というものは、表は華やかで実は陰惨極まるものだ、と著者はいう。
娼家と背中合せに寺があり、それらの家の窓下には墓地がある。
品川の町は甚だ寺が多い。それだけ需要が多かったに違いない。
また、「投げ込み寺」といって、無縁仏を大きな穴に投げ込んで
むしろをその穴にかけるだけのところもあったとか。
暗い面ばかりでなく、当時の市井の人々も描かれている。
たとえば、人に頼まれて買い物に行ってくれる「使ひ屋さん」がいた。
“五十がらみの頑丈な人で・・・正直律儀の象徴のように、
年の割には時代遅れに過ぎる丁髷を戴いて居た。”
交通の不便な明治時代には、“東京市内”への買物代行は重宝がられたようだ。
著者は子供のころ、その母が使い屋に注文した、孝経や孟子を読経した。
そして、それらの本が、“宿場町の女達の注文の品と一緒の風呂敷に
包まれて来たかも知れないと思ふと、今なお微笑を禁じえない”と
ユーモラスにその文章を結んでいる。
以前僕は、東品川に数か月勤務したことがあり、
宿の平和島から、鮫洲を経て、青物横丁に通勤していた。
また品川は、母の実家や母校からほど近い。
だから、かの地には親近感があるのだが、この随筆に書かれた内容は
今の品川の様子からは、まったく想像できない。
さて、父が書き残した、“神田の泰川堂”は、まだ経営していた。
謎だった「東京資料」も、「東京資料会」という学術書関係の会として存在し、
泰川堂も会員だった。
ただ、「素白随筆 1963年刊」を検索すると、函、帯付きで、安いのは二千円からある。
この本は内容は実に豊かで、消えてしまった江戸の風情への哀愁を感じさせるが、
本としてはかなり汚いので、古書店へ売っても、二束三文にもならないであろう。
だから、生前の父からの形見分けとして、大切にするつもりである。
「素白随筆」(1963年刊 春秋社) |
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