2016年1月17日日曜日

2種類の壮大なドラマ ホルスト「惑星」

中学2年のとき、自分のこずかいで、初めてLP盤を購入した。
駅前のレコード店から高揚した気分で帰るとき、
同じクラスの友人に出会って、けげんな顔をされたことを覚えている。

ホルスト作曲 富田勲編 組曲「惑星」。
父がラジオから録音した曲の断片を聴き、ぜひ入手したいと思ったのだ。
その頃のこずかいのおよそ1か月分近くかかった。

富田勲編「惑星」ジャケット

それから何回、このレコードを聴いただろう。
中学のころは、ラジオからカセットテープに録音した映画音楽や
ジュリーアンドリュースなどしか聴かず、
レコードは、もっぱらこれ1枚だった。

母に聴かせたときに、「これが本当の音楽だと思わないで」と
言われたことも思い出す。

ただし、これは正真正銘の音楽だ。それも、とてもドラマ性が高い。
いま聴いても、とても面白い。古びていない。
クラシック音楽に本格的に触れる前に聴いたので、
宙返りするような電子音やセリフ回しのような音遊びが
邪道に思えなかったのだろう。
むしろ、映画「猿の惑星」などで、電子音の効果は格好いいと思っていたので
この音楽の豊穣でダイナミックなイメージを喚起する力に惹かれた。

富田勲編「惑星」ジャケット裏


富田編の組曲のなかで、断然好きだったのは、「金星」だ。

「火星」の終了部、ロケットの噴射音と信号音が重なり、徐々に消え入る。
一瞬の沈黙のあと、女性の歌声と弦楽を思わせる音色が聴こえ、
続いて、ハープとハーモニカを背景に、眠たげな電子音が主旋律を奏でる。

ときに本物の楽器のような、ときに歌声や口笛のような、
ときに夢のなかにいるような不思議な音がさまざまなイメージを伝えてくる。

クライマックスは、弦楽の連なりからパイプオルガンが高らかに鳴り響き、
素晴らしいハープの音に、不可思議な電子音がメロディを奏で、
弦のオーケストレーションと共に清澄になっていき、高揚する。
そしてチェレスタと鉄琴が加わり重奏しながら、遥か高みへと昇っていく。
幻想的で素晴らしいドラマだ。

ジャケット裏(拡大);富田勲の肖像

大学に入ってからオーケストラの「惑星」を聴き始めた。
最初に買ったレコードは、ズービン・メータ指揮。
シンセサイザーに慣れた耳に、「金星」などは朴訥な音に聞こえた。
ただ、聴き込むにつれて、オーケストレーションの
重厚さ、煌びやかさもわかってきた。

富田編と比べて、特にオーケストラがよいのは、「木星」だ。
シンセサイザーのような遊びをせず、最初から圧倒的な迫力で快走する。
そして、有名な中間部の旋律は、あくまで雄大で美しい。
そのクライマックスは長く、幸福な気持ちに包まれる。
いったんは落ち着くが、また冒頭部が始まり高揚し、
最後は中間部の旋律が壮大にフィナーレを飾る。

ただ、好きなのはやはり「金星」だ。
そして、それと双璧なのが、冒頭の「火星」である。

叩きつける5拍子のリズム。ユーフォニウムの高らかなソロ。
激しい曲調であるのに、不思議と胸が高鳴る。
富田編の「火星」は、オリジナルとはまったく異なる曲である。

長らくよく聴いたのが、ウィリアム・スタインバーグ指揮、ボストン交響楽団のCDだ。
この「火星」は、テンポが恐ろしく速い。この演奏で、第1楽章が好きになった。
その後、エイドリアン・ボールト盤を買ったが、テンポが遅く、もの足りなかった。

ウィリアム・スタインバーグ盤
エイドリアン・ボールト盤

先月、念願の「惑星」のコンサートを聴くことができた。
素晴らしい演奏だった。

冒頭の「火星」から胸が高鳴り続け、
「金星」では涙を抑えることができなかった。
「水星」のコケットさに救われ、
「木星」を聴き終えたときは、あまりの高揚に深いため息をついた。
「土星」で重苦しい気分を存分に味わい、
「天王星」では宇宙戦隊のような広大なイメージを描いた。
終楽章の「海王星」では、静かな夢の幻想世界に入り、
最後の女性コーラスが消え去り、会場を沈黙が支配するまで
目も心も涙を流し続けた。

亡くなった映画評論家の荻昌弘は、富田編レコードに解説を寄せ、
最後に以下の言葉で結んでいる。
「・・・ふっと、涙ぐんでしまうのだ。富田勲の、
この目もくらむ創造の軌跡を、ふりかえって。」

まったく同感である。

ホルストの「惑星」は、オーケストラ曲と富田編曲では
まったく異なる音楽である。
そして、どちらにも思い入れが深い。

2016年1月11日月曜日

モダンの象徴 ~モニュメントのある景色~

北海道へは、旅行で1回、仕事で4~5回行った。
最後に行ったのは10年以上前。最近は縁がない。

それでも、千歳空港から札幌へ向かうときの、
ある景色がいまだに心を捉えている。

それは、千歳線の車窓から、札幌の手前で見ることができる。
行く手の右側のかなたに森が広がり続くなか、
その向こうに高い塔が立っているのだ。

その景色を見るたびに、ああ、北海道へ来たんだ、と思える。
そして、なぜか懐かしさを思わせる。



広々とした芝生や長く続く森のなかに、モニュメントが建つ景色。
おそらくそれは、僕が生まれた団地街を思い起こさせるからだと思う。

そのことは、いま書いていて、初めて気がついた。

そういえば、山形で当てもなく寄った公園で、
林や芝生に囲まれて、野外舞台があって、
なんとなく惹かれて写真を撮った。


なぜ惹かれるのか、今となれば、解かる気がする。
形は異なるが、屋外の舞台が、故郷の広い団地のなかにあったのだ。

塔や野外舞台は、モダンな建造物だ。
このモダンな感覚こそ、これらモニュメントが象徴するものだと思う。

2016年1月2日土曜日

深夜の儀式 ドビュッシーの3枚のレコード

高校のときに、自宅のクラシックレコードを聴き始めたことは昨年書いた。
リパッティのグリーグPコン(2月掲載)と、コリンズ指揮シベリウス2番(6月掲載)は、
1年生で出逢い、いまだに愛聴する2枚だ。

そして、高2の秋口から聴き始め、深く惹かれるようになったのは、
ドビュッシーのピアノ曲だ。

それまでは、オーケストラが主体の曲がよいと、なんとなく思っていた。
たぶん、部活を夏で辞めた余裕もあったのだろう。
それまで聴かなかったレコードにも針を落とした。
そのなかに、ドビュッシーの3枚も含まれていた。

作曲家の名前は知っていたが、聴くのは初めて。
すぐに、自分の感性に合う、素敵な世界が開けるのを知った。
そして、ピアノ1台で、このような絢爛たる幻想や胸に沁みる抒情を
奏でることができるのだと驚いた。

その年の秋の初めから終わりにかけて、
土曜日の深夜に、無常の愉しみの時間をつくった。

まず、寝るばかりの状態に支度をする。
そして、日付が変わる0時に、蛍光灯を暗くして
オレンジの小さな灯りだけにする。

エーテルが溶け出しているような部屋のなかで、
スピーカーに向き合うように椅子に座り、
ドビュッシーの3枚のレコードを聴くのだ。

1枚目は、ギーゼキング。
A面は「映像」1・2集、B面は「ピアノのために」、「版画」である。
W・ギーゼキング 「映像」など
「映像」の冒頭が、「水に映る影」。
おぼろ闇の中にきらめく滴が、水面にいくつもの影をつくり、
波紋が光りながら拡がる。この繊細な音たちに、いつも酔う。
ドビュッシーのピアノ曲で最高傑作のひとつ。

次の「ラモー礼賛」は、東洋的な調べと、遥かな幻視と、
ドラマティックな展開が堪らない。
ほかの3曲も愛着があるが、2集の最後を飾る「金色の魚」は、
黄金に光る魚が本当に眼の前で跳ね踊るかの如くで、
ゴージャスな夢をみさせてくれる。

この盤は比較的B面が地味であるため、しばらくすると
こちらを先に聴いて、お楽しみのA面を後回しにするようになった。



2枚目もギーゼキングで、「前奏曲集第1巻」。
豊かなイメージのドラマが繰り広げられる。
W・ギーゼキング 「前奏曲集第1巻」
1曲目の「デルフの舞姫」。
たおやかな調べと高音の響きの調和のなかに、胸に迫る夢幻性がある。
2曲目の「帆」。
帆に映る光が、時とともに移ろうさまが感じられる。
やはり高2の秋に展覧会で観た絵の色を、いつも思い出す。
フェリックス・ジーム「ヴェネチアの帆船」
3曲目「野を渡る風」。これも同じ展覧会の絵が浮かぶ。
ちょうど同じ時期に吸収した音楽と絵画とが、イメージとして結びあった。
クロード・モネ「トルーヴィルの海岸」
4曲目の「夕べの大気に漂う音と香り」。
水辺にある貴族の邸。2階のテラスに誰もいない白いテーブルあり、
そのうえに洋燈が灯もり、ほのかな香を焚く匂いが漂う。
夕焼けが残る空はゆっくり溶暗する。

5曲目「アナカプリの丘」。一転して、陽気な妖精が丘を速駆ける。
ワインを含んだ彼らは、飛んで跳ねて、最後には花火のようにはじけ散る。

6曲目「雪の上の足跡」。ポツンと残る足跡に、雪が静かに降り積もる。
けだるく、消え入るようにA面を終える。

B面の最初、「西風の見たもの」。
ほとんど暴力的な、荒々しい風が、自らの猛威の結果を眼前に視る。

荒ぶる感情が去り、次のポーンという一音が響く。
続いて、可憐で切ないメロディが流れる。
「亜麻色の髪の乙女」は、同級生がエッチングで描いた
少女の像を思い出させる。
駒井の回に登場した自作の版画を彼に提供したのに、
あの少女の絵をなぜ貰わなかったのか。

9曲目の「とだえたセレナード」は不吉な想い。
夢は現実へと変わる。

そして、クライマックス。
太古に沈んだイスの国が、霧のなかに浮かび上がる。
寺院の僧侶たちがもつ灯がおぼろにきらめく。
そしてまた、すべては静かに沈んでゆく。
「沈める寺」の一場の夢のシーンを、何度思い浮かべたことか。
二重構造の夢。輪廻をも感じさせる楽曲。

「パックの踊り」は、大袈裟なドラマを揶揄するかのような
少しシニカルでコケットな曲。
そして、「ミンストレル(吟遊詩人)」の軽やかなユーモア。
この一連のドラマは、こうして愉快な夢の思い出のうちに終える。



最終3枚目のレコードは、モラヴェッツ。
何度聴いても、あの音の響きは驚異だった。
I・モラヴェッツ「ドビュッシー リサイタル」

「子供の領分」の1曲目、「グラドゥス・アド・パルナッスム博士」。
夢のなかに飛び回る光を追うように、
限りなく優しく、子供を可愛がる様子が浮かぶ。
この盤で初めて聴いて、そのように思ったのだが、
その後、他のピアニストのを聴けば、
みな速いテンポで練習曲風に弾く(それが正しいらしい)ので、
モラヴェッツのそれとは、まったく異なる印象の曲であった。

前奏曲集から5曲。ゆっくりしたテンポで、夢幻の世界を紡ぐ。

最後は、「月の光」。一夜のすべてを締めくくるに、ふさわしい曲。
切ないほどの情熱。夢の余韻。


・・・すべてを聴き終えると、午前3時頃になっている。

ほのかな明るさが漂う闇に、溶け出していくようなピアノの音を、
じっくりと向き合って、真剣に聴いていた。
あのように音楽を聴くことは、もうできないのだと思う。

その年の12月に自宅は越して、元々は父のものだったオーディオは
自分の部屋から無くなった。
それと共に、週末の夜の儀式のような愉しみも、無くなってしまった。

ただ、16歳の最後の数か月に、
生涯記憶のなかにとどまるであろう音とイメージを刻めたのは幸せだった。
いまだにドビュッシーは大好きだ。

素晴らしいレコードとの出会いは、亡き父の趣味のおかげ。
感謝しなければならない。

2015年12月27日日曜日

神秘的な官能性 デイヴィッド・リンゼイ「憑かれた女」

今から1世紀ほど前の英国サセックス州。
そこに、ランヒル・コートという城館がある。
資産家の叔母と流浪生活を送る25歳のイズベルは
その館が気に入り、婚約者であるマーシャルを通じて、
城館の持ち主であるジャッジに譲渡を申し込む。

ジャッジは58歳のやもめ。
二十歳下の妻を亡くしたばかりで、当初は館を売るのを断るが、
じきにイズベルへの譲渡に、気が変わる。

実は、イズベルは、マーシャルや叔母と最初に下見をした際に、
館のなかで、ぶうんと震動するような低く妖しい音を聴いた。
聞き耳を立てていると、急に心のとても深いところにある琴線に
触れられた気がした。
一度も触れられたことがない琴線。パッションそのものだ。

それは、彼女のみが感じられる音であり、感覚だった。

また、彼女は、ランヒル・コートの由来についても知ることになる。
それは、6世紀からの歴史があり、ウルフの塔と呼ばれていた。
ランヒル(丘)には、トロールが住んでおり、
塔の部屋の一部を消し去ってしまうという伝説も存在した。

再び下見に訪れた際、イズベルは鏡のなかに、
普段見る自分とは異なる自分を見る。
性的な甘美さに満ち溢れ、何もかもが魅惑たっぷりに見える自分。

そして、今までは見えなかった階段が、突然出現するのを見る。

階段を昇って、イーストルームという幻の部屋へ入り、
そこで、やはり何かに導かれたジャッジと出会う。
彼は、血色がよく、品格が落ち、精力的で、45歳程度にしか見えない。

窓からは陽光が射し、草や土や花々の新鮮で甘美な香りが入り込む。
館の敷地は消えてしまい、自然豊かな景色が広がる。
大昔のサクソン人のような服をまとう大男がひとり、
向こう向きのまま、古風な弦楽器を奏でている。

その音色は低く、大自然の風景そのものの声で、
聴いていると、繊細で情熱的な思念を強く感じる。
イズベルは、情熱的な大胆さでジャッジに身を任せようとするが
ふと新たな音色に我に帰り、白けた気持ちで部屋を出る。

その幻の世界で、3度ジャッジに遭った際に、
彼はこの謎を解くために、楽器を奏でる大男の方へ向かう。
イーストルームの窓から彼らを見るイズベル。
と、大男に正面から向き合ったジャッジは、
その顔を見、驚愕の表情を浮かべると、その場に倒れ伏す。

そして、イズベルも気を失い、その甘美で悲劇的な逢瀬は
終わりを告げる。

・・・

以上は、デイヴィッド・リンゼイ著、「憑かれた女」の粗筋である。
14年前に初めて読み、豊かな幻想性と神秘的な官能性を感じた。
夢幻の世界に入り込むため、今までに何回か読み返した小説だ。

舞台は、20世紀とはいえ、いまだ奥ゆかしい秩序に覆われる英国。
主人公のイズベルは、「全体に気品があり、身のこなしも優美」だが、
婚約者に対して、
「愛情という点で一番高い値段をつけてくれる人に自分を売るかもしれない」
と公言するような女性だ。また、「愛はもっと強いものでなくちゃ」と貪欲である。

そのような女性が、館で最初に妖しい音色を聞き、
「歓喜の情とともに、心が責め苦に苛まれたような恐ろしい絶望感を束の間、感じた」
というように、麻薬のような、甘美で恐ろしい官能に惹かれていく。
日頃の束縛から解放され、自分の欲望に正直になれる、
古典的に抑えた筆致で描かれるそのくだりが、この小説の妙である。

また、この作品の決定的な魅力は、
ウルフの塔の伝説に基づく、不思議で幻想的な雰囲気だ。
イーストルームでの逢瀬の場面は、読者の視覚、聴覚、嗅覚、触角に訴え、
甘美な世界のなかで、後ろ向きの大男への得体のしれない恐怖も感じるなど、
神秘的なイマジネーションの宝庫だ。

特に、かの大男の存在は、ヴェルヌの「地底旅行」に一瞬だけ遠景に登場する、
太古の生物と闘う巨人の恐怖を彷彿とさせる。

それにしても、ジャッジをショック死させた、大男の顔つき、表情は、
どのようなものだったのだろう。

たとえば、顔があるところに、真っ暗な真空が開いている。
または、その顔が自分のものと同じで、
当初の無表情から薄ら笑いが浮かび、急激に顔つきの品性を落としていき、
最後には獣の顔に変わる・・、というイメージ。それも恐ろしい。

さて、この小説の主軸はもちろん、
イズベルとジャッジの運命的な出会いと悲劇的な結末だが、
それに対比して、叔母とマーシャルの俗っぽさや現代性も愉しむこともできる。

他の男に入れ込んでしまった恋人とのよりを、
マーシャルが友人を介して戻す予感を感じさせながら、さらっと終わるところが
劇的世界から日常に戻った安心とちょっとしたユーモアを感じさせる。

「憑かれた女」(サンリオ文庫;1981年刊)


2015年12月20日日曜日

心のなかの幻想 ルネ・マグリット「光の帝国」

ルネ・マグリットは、小学生のときから
不思議な絵を描く画家として知っていた。
そして、高校生のとき、貰った名画カレンダーに含まれていた、
「光の帝国」を初めて見た。

ルネ・マグリット「光の帝国」

この絵がとても気に入って、就職して実家を出るまで
ずっと部屋に飾っていた。

青空の下に、森閑とした暗い空間が広がり、
邸宅の前の街灯が、あたりを柔らかく照らし出す。

青空は、日常や現世を表し、光に照らされた夜の空間は
孤独や郷愁や心のなかの幻想の世界を象徴する。

マグリットは「光の帝国」というタイトルの絵を数枚書いているが、
僕が好きなのはこの絵だ。
それは、光が水面に映えて、ほかの絵よりも明るさが増しているからだ。

「光の帝国」を見ていると、ホルマン・ハントの「世の光」を思い出す。
幼いころから教会で目にしていた絵で、懐かしい。
そういえば「世の光」も、森のなかで家の前に灯りをもって
あたりを照らす構図だ。
マグリットも、この絵に暗示を受けたのかもしれない。

ホルマン・ハント「世の光」



2015年12月13日日曜日

不思議な因縁 「木に挨拶をする」(内海隆一郎)

昨日の朝、いつもの公園へ歩きにいくと、
なじみのモリシマアカシアが根元から無残に折れて
ヒイラギナンテンにのしかかるように倒れていた。

しばらくその場にたたずんで、
8年ほど続いたその木との淡い交流に思いをはせた。

40ヘクタール以上ある公園のなかで、
知る限りでは、ただ1本のモリシマアカシアだった。
直径50cmはある老木で、樹皮は黒ずんで縦割れが進み、
触るとぼろっと落ちるくらいだった。
初めて見たときから、5mほどの高さで幹は折れて無く、
その幹から太い枝が横に伸び、葉や花をたくさんつけていた。

ある年、積雪のあとに見に行くと、枝の1本が雪の重みで折れていた。
そして、もう1本の枝だけが残った。

毎年5月半ばには、その1本の枝に、薄黄色のミモザの花を咲かせた。
ただ、今年はその花も、例年より白みがかっていたように思う。

その木の在る場所は、広葉樹の林のなかで、
威容の割にはあまり目立たなかった。
土日の朝の自分なりのウオーキングコースに当たるところなので、
モリシマアカシアと隣にある細長いエンジュにはタッチをして、
心のなかで挨拶をしていた。

その行為は、内海隆一郎著「木に挨拶をする」という本を読んでいたからだ。
本の帯にある、“自然の不思議な力、人間の秘められた能力”にちなんだ
素敵な随筆集である。

書名になっている冒頭の一篇は、著者が早朝散歩の際に
ある老紳士がきまって1本のザクロの老樹に挨拶をすることから始まる。
彼は、「やあ、おはよう。」と声をかけるばかりか、
雑草を踏みわけて行き、幹を両手で撫でながら話かける。

聞けば、3年前から朝の散歩を始めたが、丸1年たったころ、
しきりと誰かに声をかけられているような気がしたという。
「間もなくこの木と分かりました。わたしが梢を振りあおぐと、
その声が消えるんです、やっと気がついたねというように。」

それから彼は声かけて挨拶するようになった。
木も、例の声で挨拶を返すという。
「だんだん親しくなって、いまじゃこうして幹を撫でて
話しかけるようになりましてね。
・・・奇妙なことですが、そうするようになってから、
この二年のあいだ持病のリューマチがまったく治まっています」

著者は、時々この木の前を通るが、一度も呼びかけられたことがない。
「・・・やはり人を選ぶんでしょうか」と聞けば、老紳士は
「そんなことないと思いますよ。毎朝、挨拶していれば、
きっと応えてくれます」

それから著者は、ザクロの木に声をかけている。
「おはようございます。今朝もお元気そうで何よりですね」
敬語を使うのは、ザクロのほうが年長だからだ。
「今朝までのところ、まだ応答はない。」というところで
この一篇を終えている。

「木に挨拶をする」という本には、ほかにも不思議で魅力的な話が
いくつも掲載されている。

たとえば、「少女の指針」という一篇は、
1991年12月に、12歳で夭折した坪田愛華という少女の話だ。
彼女は、「地球の秘密」という漫画のリポートを書きあげた夜に、
脳内出血で急死した。
それまでは健康そのものであり、急死の兆候などまったく無かったという。

内海氏は、旧知の役場の職員から、その町に住んでいた少女の話を聞き、
彼女のリポートを見たいと願うが、一方で家族にとっては大事な遺品なので
それは望めないと半ばあきらめていた。

ところが、それから1週間もしないうちに、新聞で大きく取り上げられ、
全国から教材に使いたいという依頼が両親のもとに殺到したという。
すぐに印刷され、それでも足りずに増刷が続けられた。
著者もそのリポートをみて、完成度の高さに驚いている。

この一篇が正確にはいつ書かれたかはわからないが、
内海著書の発行日が1992年11月20日だから、少女の死から1年と経っていない。
その後、かのリポートは、1992年4月には英訳で五千部が発行され、
翌年には国連で受賞し、現在までに11カ国語、60万部が発行、
2004年には、遂に一般書籍化された。

著者は、それらの動きを先取りして、この一篇に紹介している。

このような不思議な話は、無理に集めたというより、
著者の内海隆一郎氏のもとに自然に集まってきたような気がする。
自然や人に不思議を感じるような心をもった人にこそ、
そのような話が集まってきて、作品として陽の目を見るのだ。

「木に挨拶をする」のあとがきには、ザクロの木の後日談が載っている。

「あれから三ヶ月ほどして、とつぜん空き地にブルドーザーが入った。
わたしが散歩の途中で見たときは、
すでにザクロは無残にも押し倒されたあとだった。
その日を境に、ザクロと親しくしていた老紳士とも出会うことがなくなった。」

この文章には、胸を衝かれる。

・・・

僕が、モリシマアカシアが倒れているのを発見した、まさにその日、
帰宅して朝刊を開くと、内海隆一郎氏が死亡欄に小さく出ていた。

この一事は、僕にとって、長く記憶に残るだろう。
内海氏は最後まで、不思議な因縁を感じる人だった。


2015年12月6日日曜日

全身での感応 (ゴッホの2枚の絵)

「ゴッホ書簡全集」を座右の書にしているという
金属加工業のかたわら文学に携わる人の記事を読んだことがある。
金属加工のイメージ、つまり繊細で、地道で、厳しい仕事を思い、
では、その人が常に手に取る読み物とはどのようなものか、
それを知りたくて6冊の全集を買い、斜めに読んだ。

書簡集を読むと、思い込みが激しく、行動力もあるひとりの男が
何を考え、どのように自らを導いたのかがあからさまにわかる。
フィンセントのあの苛烈な生き方の発想が、どのようなものかという
興味には充分応えてくれた。

ただ、読むほどに、彼の作品が見たい。
タイミングよく、ゴッホ展が開催された。10年前のことだ。

「夜のカフェテラス」、「ひまわり」、「黄色い家」、「種をまく人」、
「糸杉と星の見える道」、そしてパリ時代の自画像などが目玉の、
本格的な展覧会だった。
ゴーギャン、エミール・ベルナール、モンティセリなど、
書簡集に登場する画家たちの絵もあって興味が深まる。

よく知られた絵を間近に見て感じて、とても愉しめたが、
その会場で、特にふたつの絵に惹かれた。
印刷物でも見たことがなく、そのときが初見だった。

ひとつは、「サン=レミの療養院の庭」。

誰もいない療養院の中庭。
主役は、花々を咲かせた樹木と、地面を覆う草たちだ。
木々の花は、白、薄黄、ピンク、赤と色とりどりで、
葉の鮮やかな緑とともに、萌え出ずる様が感動的だ。
地の草々も天に向かうように伸び、勢いがよい。
コバルトブルーの空は美しく、またその青が地面に映えている。

ベンチがぽつんとあり、フィンセントを象徴しているように見える。
ただ、色彩鮮やかな植物と、黄色の療養院の壁に囲まれて
けして孤独な様子ではない。空の青は、ベンチにも映っている。

この絵を最初に見たとき、絵具の色があまりに鮮やかで、
しかもニスのせいで、木々や花たちが煌めくように光っていることに驚かされた。
とても100年以上前に描かれた作品とは思えない。
また、これは実物を見なければ、けして味わえない感動だ。
保管者側で、極めて丁寧に修復されているのだと思う。

「サン=レミの療養院の庭」(1889年)

出品されたなかで、もう1枚、好きな絵があった。
「夕暮れの風景」だ。

黄色とオレンジに彩られた夕暮れの空。
樹木や畑作の緑は、色を失いつつあり、
真ん中から置くへ続く道は、空の色を映している。
奥には青い屋根の建物があり、空の黄色と対している。

この絵のタッチは力強い。
手前の木は、立体的な塊りが鈴なりになっているようだ。
ぐぐっ、ぐぐっと音が聞こえるような筆の運び。
奥のこんもりとした樹木は、根元からの樹勢から枝葉を空に放ち、
まるで黒い炎が燃え上がっているように見える。
いずれも、黄色の空に、ほとんど黒のシルエットとして浮かぶ。

畑の作物は、あるものは整然と太く縦に並び、空間に広がりを感じさせる。
またあるものは地面に伏せており、地がうねるようにも見える。

そして、上半分を占める空。並行の太い線が幾重にも連なり、
陽の動きに伴い、まるで空全体が大きくゆっくり流れているようだ。

そのようなタッチの絵でありながら、不思議と安らぎと懐かしさを覚える。
そう。この絵の最大の魅力は、郷愁と孤独なのだ。
見る者の胸を締めつけるような情感を、この絵は湛えている。

「夕暮れの風景」(1890年)

この展覧会には、2回行った。
2回目は、開館直後に入り、まっすぐにこの2枚の絵の前に行き、
全身で絵から感ずるものを受けとめた。
そして、人々が多くなってくるまで、絵の前にいた。

この2枚は、好きなだけでなく、所有したい絵である。
部屋に飾って、ひとりでいつまでも見入りながら、酒を呑みたい絵である。