2015年11月29日日曜日

夢の具現とまぼろし(フォーゲラー)

幻想美術を紹介する冊子で、ハインリッヒ・フォーゲラーの絵を初めて見た。

夕暮の花の園に、女性がもの想いにふける。
まとっている布は薄く、体の線が露わになる。
大きな花の光輪は、彼女を守護するようだ。

油彩でありながら、イラストレーションを思わせる繊細なタッチ。
女性の美と幻想的な景色への憧れと賛美が感じられる。

夢(1912年)

淡い幻想的な絵を産み出す画家を想像してフォーゲラーを調べてみると、
初期には、木々や小川などの自然に囲まれた景色に
女性がたたずむような絵が多い。
いずれも、彼の妻となるマルタをモデルにしていると云われる。
抒情的で少し物憂げだが、そこにはやはり、神秘的な憧れを感じる。

春(1897年)

あこがれ(1899年頃)

また、銅版画は、背景となる豊かな自然を細かく描写し、
そのなかに女性を配して、ひとつの物語を思い浮かべられるような
そんな絵が多い。
春(1896年)

夏の夕べ(1902年)

死がバラを摘む(1904年)

彼は、自らの夢と物語を現実化しようとした。

ヴォルプスヴェーデという小さな村に移住し、
農家を改造してバルケンホフと称する住居をつくった。
白樺をはじめ、自分好みの樹木を植えて庭園を設け、
7年来思い続けた少女を妻として、そこに迎えた。

まさに、人為的につくられた楽園だ。

バルゲンホフ(1910年)

ただ、フォーゲラーは、自分の創った世界に執着し、自分のことばかりを考え、
周囲には自分の世界における役割を求めたと云う。
そんな利己的な理想郷は、長続きしなかった。

また、彼は豊かな才能から、挿絵やデザインの仕事に活路を見出すが、
そうして稼いだ金さえ、慈善や住居の増築に入れ込んだ。

レダ(1912年頃)

フォーゲラーは、妻との距離を縮めようと努力したようだが、
おそらく彼の視点は一度も妻や周囲を主役に据えることなく、
一方的な思いで終わったように思う。

結局、彼は50歳を前に家族と別居し、ロシア人の女性と再婚して
ソ連に拠点を移す。そこでも紆余曲折があり、70歳を前に彼は窮乏死する。

夢の具現であるバルケンホフと、そこでの家族との生活は、
まぼろしのように消え去ったのだ。

フォーゲラーのバルケンホフ前での写真を見ると、
結婚して間もない頃であるのに幸福感が感じられず、
強く意思を示す口元と、神経質そうな表情が見て取れる。
結婚前のマルタの初々しい写真と併せて見ると、
その後の人生が思われて痛々しい。
フォーゲラー(1902年頃)

マルタ
冒頭の絵、「夢」は、やはりマルタをモデルにしていると言われる。
ただ、この絵を描いたとき既に、彼と妻の距離は
修復できないほど隔たっていた。

彼は若くして、自分の夢を形にしたにも関わらず、
それが自分の思い描く夢にはなり得なかったことに苦悩したのだ。
その現実から逃れ、自分の憧れをイメージするために、
「夢」と題する絵を描いたのだと思う。

2015年11月22日日曜日

聖と性のイコン (エリック・ギル)

高額な古書を求めるため、ネットオークションに血道を上げていた14年ほど前。
何度か洋書を買い求めた出品者から、1冊の本がおまけで付いてきた。
「Troilus and Cressida  A Love Poem in Five Books」。
1932年ニューヨークでの発刊、B5版で300ページ超の本である。

その本が印象的だったのは、本文の全ページに、
木版のカットが施されていたことだ。
洗練された様式美。ユーモラスで官能的だ。

「Troilus and Cressida」

(同上)

 描いたのは、エリック・ギル(Eric Gill)。
彫刻家、版画家、書体デザイナーでもある英国人で、
アーツ・アンド・クラフト運動に参加したという。

彼の木版画を調べると、どこか魅力的なものが多い。
図録を2冊購入した。

聖画像(イコン)として描かれたものは、
明確な線としっかりとした構図で、力強さを感じる。
ただ、人物の表情や執拗に描かれた波線などに
異様な印象も受ける。

Nativity (1927)

The Crucifixion (1926)

Ascension (1918)


一方、挿絵やデザイン画は、より自由奔放な線で描かれており、
ディティールの描き込みや、ユーモラスな味わいを愉しめる。

The fall of Wolsey (1937)

The Crucifixion (1931)


そして、女性(女体)を描いたものは、流れるような線で起伏を表現し、
官能的な美を情感豊かに描いている。
画家の思い入れが深い分、観る側も絵のイメージが湧き、
もっとも愉しめるジャンルになっている。

Approaching Dawn (1927)

On my Bed by Night (1925)

The Bird in the Bush (1928)

The Dancer (1925)

Leda loved (1929)

Eve (1926)

Famale Nude (1937)

Famale Nude,Standing (1937)





2015年11月15日日曜日

鉱物への愛 A・E・フェルスマン 「石の思い出」

中学1年のときに、山歩きで水晶のかけらを見つけて以来、石が好だ。
今でも、形が整っているきれいな石があれば、拾って手元に置いている。
パワーストーンというわけではないが、できるだけ手で触って楽しめる石がよい。

さて、10年前。新聞の書評で、ロシアの鉱物学者の随筆集が紹介された。
アレキサンドル・エフゲニェビッチ・フェルスマン著「石の思い出」(堀秀道 訳)。
日本では1956年に刊行されたが、今回は同じ訳者による新訳での再刊である。
 
「石の思い出」(2005年 草思社刊)
著者は、まえがきに書いている。
「『石の思い出』は、ある人生の歴史であり、
自然へ寄せた風変わりな愛情の記録であり、
五十年もの長い時間をかけて探りつづけた自然の秘密でもあります。」

そして、自分の生涯のほとんどを使い果たし、新しい時代を迎えたいま、
「あたかも、朝の蜃気楼の輪郭が、
晴天のまぶしい日差しを受けて消え失せるように、
これらの思い出の情景は溶け去ろうとしています。」

フェルスマンは、生命のない大地の石たちに、
半世紀に及ぶ強い愛情をかけ、それらの言葉を学んだ。
そして、鉱物の存在や、その誕生と死滅の秘密を知り、
秘められた本質や調和と秩序の法則に親しんだ。

それにより、彼は、コスモスの理念を知り、
また、自然の運命と人間の運命とは、
切り離せない絆で結ばれていることを学んだという。

彼は、ひとつひとつの思い出のきらめきのなかから、
「必要なものだけを選び出し、うまく未来を見通して、
自分の力と生命を十分にその未来へ引き渡す」、
そのように思い出というものを理解したのだ。

これらの言葉は、この随筆の骨格を成す。
自分の愛情を信じ、しかも執着せず、いさぎよい。
静かな意思が読む者に伝わり、共感を産む。

本書は19章で構成されるが、そのうちのひとつが、
「サアーミ族の血」。

フェルスマンは若いころ、サアーミローピ族の老婆から伝承を聞く。
彼女の先祖が、侵入者のシベータ族から
自分たちの土地を守った話だ。
ローピ族に追われたシベータ族は、最後には石になったが、
闘争の間、ローピ族もたくさんの血をツンドラに流した。

そして、フェルスマンの興味は、“サアーミ族の血”。
つまり、血のように赤いユージアル石、希金属である。
「自由と生命のために流された血ほど貴いものがないように、
美しさといい量といい、この地のユージアル石に匹敵するものは
世界中どこにもないのである。」

短いながら、伝説と科学との両立が面白い章である。

また、「カラダーク火山で」という章。
大学卒業間近、“私”は念願の火山調査のため、クリミア半島へ旅に出る。
連れは、女学生のシュローチカ。度が過ぎるくらい理性的であったという。

旅は順調で、ついにカラダーク火山が見える海辺に着いた。
そこで彼らは“病気”にかかる。

豊かな自然のなかで、彼らは子供に帰り、すっかり怠け、
自分たちのみつけた美しい石を自慢しあった。
シュローチカは熱っぽい目でそれらの石を見つめた。
石が彼女をすっかり活性化し、彼女のなかに新しい人間が目覚めたのだ。

ようやく彼らは火山に登る。そそり立つ絶景。
そこで彼らは、ローズ色の瑪瑙の鉱脈を発見する。
「ああ、シュローチカがどんなに喜んで、
鋭く硬いこの鉱物を打ち割ったことか。」

彼女は断崖にいることも忘れ、片手で岩につかまり、
もう一方の手で結晶を力いっぱい叩いていた。
“私”は彼女に気をつけろ、と注意する。
すると、シュローチカの目に、以前と同じ異常な光が浮かんだ。
ある種の熱情、熱狂の火花。彼女はより上へと登り、
そこで素晴らしい鉱脈を見つけて、歓喜の声をあげる。

絶壁に身を寄せ、ぐらぐらした岩の上で身を支えていた彼女。
だが、次の瞬間、鋭い叫び声と崩れる岩音、水のざわめき、
そして死んだような静けさ・・。

三日後、美しい礫の上で波に打たれている彼女が発見された。
「それ以来、“私”は鉱物の調査にはも連れて行かないのです。」

フェルスマンは、知人である“私”から話を聞いたことになっている。
だがそれは、フェルスマン自身の身の上と思える。

無機物である石たちに魅入られた人間のドラマが、
理知的だが詩情を感じさせる筆致で描かれていて、好もしい。

また、訳者は20歳のときにこの本を訳し、
半世紀を経て、再度訳業に取り組んだ。
このような仕事の仕方が、ただ、うらやましい。






2015年11月7日土曜日

創られた熱情と没入する魂 アッテルベリのピアノ協奏曲

スウェーデンの作曲家、アッテルベリの作品を8年ほど聴いている。
交響曲1番と2番が好きだ。
自分の葬儀には、2番の第1楽章をかけてほしいと願っていた。
(さすがに長いので、今はスクリャービンのピアノ曲、「ワルツ 作品38」がいい。)

アッテルベリ交響曲1番&2番

上記のふたつの交響曲よりも、頻度高く聴いているのは、彼の唯一のピアノ協奏曲だ。

第1楽章は、大仰で憂愁な旋律で始まる。
それは、運命的な悲劇を感じさせ、また熱に浮かされたような音楽である。

第2楽章は、弦のかすかな伴奏に合わせて、
ピアノが孤独にさすらうようなメロディーを奏でる。
そして、抒情的なオーケストレーションが盛り上がり、
徐々に静まり、いったん孤独のなかに浸る。
また、高鳴りをみせ、劇的な転調と共に、ピアノとトランペットが輝かしく歌う。
この曲の見せ場のひとつである。
その後も、遥か天上のまぼろしのように、ピアノとオーケストラとが
しばらくの間、語り合う。

突如、ピアノの天上から雪崩れ落ちる音が鳴り響き、
怒涛のように畳みかける、壮麗な第3楽章が始まる。
途中には、1楽章の悲劇的な憂愁や、2楽章の夢幻の響きが再現されるが、
明確な意思をもって怒涛の波が押し寄せ、華麗に天空に昇って、曲を締めくくる。

この曲には、意図的に創られた熱情と、そこに敢えて没入する魂がある。
そのような時期を象徴する曲として、忘れ難い。

アッテルベリ ピアノ協奏曲

2015年11月1日日曜日

大自然に侵される恐怖 A・ブラックウッド 「ウェンディゴ」

幻想文学を読むようになってから、アルジャーノン・ブラックウッドの著作を
何冊か読んできた。

ファンタジックな「ジンボー」や「妖精郷の囚われ人」。
神秘的・教条的な「ケンタウロス」。
オカルトと謎解き趣味が強い短編集、「ジョン・サイレンス」。
ほかに、邦訳短編集が2冊。

そのなかで、何度か読み返すのは、「ウェンディゴ」と「犬のキャンプ」だ。

いずれの作品も、人智を超えた底知れぬ大自然を舞台に、
その自然の原始的な力に感応してしまう人間、
つまり被害者でもあり、奇怪な現象そのものにもなってしまう霊媒のような、
そんな人物が話の主体となる。

「犬のキャンプ」は、怖さのなかにも読後の爽やかさと青春の切なさがあり、
好もしい作品だ。が、今回は、恐怖に徹した「ウェンディゴ」を取り上げる。

***

・・極北、辺境の地、カナダ。奥深い森林に、4人の仲間が狩猟をしに来る。
そのなかのひとり、ケベック生まれの案内人、デファーゴ。
彼は狩りや野営に詳しく、唄やホラ話もお手のもの。
ただ、「荒々しい自然に非常に鋭い感受性をもち、
未開の中の孤独を追求するのに、執念ともいえるロマンチックな情熱」をもつ。

不猟であったその年、彼らは獲物を求めて、まだ未開の西の湖へ赴くことにするが、
デファーゴは乗り気ではない。何かを恐れている。
ただ、彼は気を取り直し、2手に分かれた一方で、主導的な役割を果たす。

ところが、同伴者の依頼で、彼が唄を湖に響かせていると、
突然彼は緊張して唄をやめ、瞬間、驚くべき機敏さで立ち上がり、空気の臭いを嗅いだ。
犬がするようにせわしなく、あらゆる方向に向かって。
ついに、湖に向かって何かを“嗅ぎつける”。
彼は震え、顎の先まで真蒼になっていた。

しばらくして落ち着いたデファーゴは、彼の唄を端緒として、
ウェンディゴを呼び覚ましてしまったと語る。

ウェンディゴとは何か?
「そいつはな、光のようにす早いやつでな、森にいるどんな獣より大きいんだ。
おまけに眼にも見えないときてやがる。それだけよ。」

案内人と同伴者は、テントで眠る。ふと同伴者が物音に眼を覚ますと、
デファーゴが木の葉のように震えている。次の瞬間、凄まじい音が、
ある種の声が、天空から聞こえてきた。<デー・ファー・ゴー>

その声を聞いたデファーゴは、猛烈な勢いでテントをはねのけると、
雪の大地へと消え去った。同伴者はつれの名を大声で叫んだが、
そのとき、妙に熱狂した歓喜の声、デファーゴの声が聞こえ、去った。
「ああ、ああ、おれの足が焦げてる!ああ、ああ!こんなに高く、こんなに速く!」
まだ揺れているテントのなかは、かすかな奇妙な臭いが残っていた。

若い同伴者は、デファーゴを探すうち、雪のなかに大きな獣のような足跡と
かの案内人の足跡を見つけ、あとをつける。
そのうち、それらの足跡は飛ぶように信じられない距離に歩幅を広げ、
まもなく彼は「いったい何の足跡を追っているのかわからなくなってしまった。」

ひとつは野生の何者かに属する足跡で、ひとつは彼の同志のものであったのが、
何とも得体の知れぬ異形のものに変貌してしまったのである。

疲労と混乱の極みに、ついに恐れていたそれがやってきた。
頭上の、はるかな高みに、同伴者は、デファーゴの弱々しい泣き声を聞いたのである。
「ああ!ああ!熱い!ああ、おれの足が焦げてる!足が焦げてる!」
叫び声は、二度と聞こえなかった・・。

二昼夜の悪夢をみた同伴者は、他の2人組と再会し、恐怖の状況を共有した。
緊張による長い沈黙の末、デファーゴの相棒の案内人は突如、
夜の闇に向かって鼓膜の破れんばかりの喚き声を発し、あるリズムを作り出す。
いわく、「デファーゴを呼んでるんでさ。」

その瞬間、それに応えるかのように、
空を覆いつくす何ものかが、おぞましい速度で暗い上空を走り抜けた。
同時に、かすかな人間の叫び声も聞こえる。
そして、木立のなかを、デファーゴが落ちてきた!

デファーゴは、よろめく足取りで一同に近づいてきた。
「帰ってきましたぜ。誰かに呼ばれたのでね。」干からびた、振り絞るような声。
彼の顔は動物のようで、妙なプロポーションで、あの臭いがまとわりついていた。
そして、彼の相棒が叫ぶ。「あいつの足を見ろ!あんなに変わっちまってる!」

人間ではなく、妖魔そのもののデファーゴが、喘ぎ声を出す。
「あんたも見たんだな。俺の焦げた足を見たんだな!
でなけりゃあ、おれを助けることができたのに・・」

突如、湖から風の唸り声が、彼らを包囲し、デファーゴは
誰もが留める間もなく消え去っていた。
天空から彼の叫び声が、地上の三人の耳に届いた。

夜明けとともに、三人は黙々と帰途に着く。
日暮れにテントにたどり着いた彼らは、
焚き火の跡に、灰の中を動き回るデファーゴを再び見出したのである。

今度は、彼はほんもののデファーゴであった。
ただ、虚脱状態で、火を起こすこともおぼつかず、
背丈は信じられぬほど縮んでいた。

彼は正気に戻ることなく、数週間後に死んでいった。
彼の仲間たちは、いやおうなく事情を理解していた。
デファーゴが、ウェンディゴを見たのだということを・・。

***

この物語は、大自然に侵される怖ろしさが強烈に伝わってくるが、
何よりも筋立てとして興味を引かれるのは、
拉致されたデファーゴが二度も、戻ってくることである。

一度目は、獣へと化身した姿で、そして再び戻ってきたときには、
獣から脱することはできたが、それで精根尽きてしまった姿で。

“ウィンディゴ”とは、アメリカ北端の原住民に伝わる精霊の呼び名だが、
“ウィンディゴ症候群”という症例もあるという。つまり、
「このままでは自分がウィンディゴに変化してしまう」という強い恐怖心を伴い、
病が進行すると、食物を拒絶し、生活する能力を喪失してしまう。

英国人のブラックウッドは、若いころに世界を旅したという。
アメリカの北部で、この恐るべき伝承を聞き、
彼は大いに触発されて、この傑作を書いたのだと思った。

「ウェンディゴ」所収の「ブラックウッド傑作選」

パルプマガジン(1944年6月)の「ウェンディゴ」挿絵