今でも、形が整っているきれいな石があれば、拾って手元に置いている。
パワーストーンというわけではないが、できるだけ手で触って楽しめる石がよい。
さて、10年前。新聞の書評で、ロシアの鉱物学者の随筆集が紹介された。
アレキサンドル・エフゲニェビッチ・フェルスマン著「石の思い出」(堀秀道 訳)。
日本では1956年に刊行されたが、今回は同じ訳者による新訳での再刊である。
「石の思い出」(2005年 草思社刊) |
著者は、まえがきに書いている。
「『石の思い出』は、ある人生の歴史であり、
自然へ寄せた風変わりな愛情の記録であり、
五十年もの長い時間をかけて探りつづけた自然の秘密でもあります。」
そして、自分の生涯のほとんどを使い果たし、新しい時代を迎えたいま、
「あたかも、朝の蜃気楼の輪郭が、
晴天のまぶしい日差しを受けて消え失せるように、
これらの思い出の情景は溶け去ろうとしています。」
フェルスマンは、生命のない大地の石たちに、
半世紀に及ぶ強い愛情をかけ、それらの言葉を学んだ。
そして、鉱物の存在や、その誕生と死滅の秘密を知り、
秘められた本質や調和と秩序の法則に親しんだ。
それにより、彼は、コスモスの理念を知り、
また、自然の運命と人間の運命とは、
切り離せない絆で結ばれていることを学んだという。
彼は、ひとつひとつの思い出のきらめきのなかから、
「必要なものだけを選び出し、うまく未来を見通して、
自分の力と生命を十分にその未来へ引き渡す」、
そのように思い出というものを理解したのだ。
これらの言葉は、この随筆の骨格を成す。
自分の愛情を信じ、しかも執着せず、いさぎよい。
静かな意思が読む者に伝わり、共感を産む。
本書は19章で構成されるが、そのうちのひとつが、
「サアーミ族の血」。
フェルスマンは若いころ、サアーミローピ族の老婆から伝承を聞く。
彼女の先祖が、侵入者のシベータ族から
自分たちの土地を守った話だ。
ローピ族に追われたシベータ族は、最後には石になったが、
闘争の間、ローピ族もたくさんの血をツンドラに流した。
そして、フェルスマンの興味は、“サアーミ族の血”。
つまり、血のように赤いユージアル石、希金属である。
「自由と生命のために流された血ほど貴いものがないように、
美しさといい量といい、この地のユージアル石に匹敵するものは
世界中どこにもないのである。」
短いながら、伝説と科学との両立が面白い章である。
また、「カラダーク火山で」という章。
大学卒業間近、“私”は念願の火山調査のため、クリミア半島へ旅に出る。
連れは、女学生のシュローチカ。度が過ぎるくらい理性的であったという。
旅は順調で、ついにカラダーク火山が見える海辺に着いた。
そこで彼らは“病気”にかかる。
豊かな自然のなかで、彼らは子供に帰り、すっかり怠け、
自分たちのみつけた美しい石を自慢しあった。
シュローチカは熱っぽい目でそれらの石を見つめた。
石が彼女をすっかり活性化し、彼女のなかに新しい人間が目覚めたのだ。
ようやく彼らは火山に登る。そそり立つ絶景。
そこで彼らは、ローズ色の瑪瑙の鉱脈を発見する。
「ああ、シュローチカがどんなに喜んで、
鋭く硬いこの鉱物を打ち割ったことか。」
彼女は断崖にいることも忘れ、片手で岩につかまり、
もう一方の手で結晶を力いっぱい叩いていた。
“私”は彼女に気をつけろ、と注意する。
すると、シュローチカの目に、以前と同じ異常な光が浮かんだ。
ある種の熱情、熱狂の火花。彼女はより上へと登り、
そこで素晴らしい鉱脈を見つけて、歓喜の声をあげる。
絶壁に身を寄せ、ぐらぐらした岩の上で身を支えていた彼女。
だが、次の瞬間、鋭い叫び声と崩れる岩音、水のざわめき、
そして死んだような静けさ・・。
三日後、美しい礫の上で波に打たれている彼女が発見された。
「それ以来、“私”は鉱物の調査にはも連れて行かないのです。」
フェルスマンは、知人である“私”から話を聞いたことになっている。
だがそれは、フェルスマン自身の身の上と思える。
無機物である石たちに魅入られた人間のドラマが、
理知的だが詩情を感じさせる筆致で描かれていて、好もしい。
また、訳者は20歳のときにこの本を訳し、
半世紀を経て、再度訳業に取り組んだ。
このような仕事の仕方が、ただ、うらやましい。
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