2015年12月27日日曜日

神秘的な官能性 デイヴィッド・リンゼイ「憑かれた女」

今から1世紀ほど前の英国サセックス州。
そこに、ランヒル・コートという城館がある。
資産家の叔母と流浪生活を送る25歳のイズベルは
その館が気に入り、婚約者であるマーシャルを通じて、
城館の持ち主であるジャッジに譲渡を申し込む。

ジャッジは58歳のやもめ。
二十歳下の妻を亡くしたばかりで、当初は館を売るのを断るが、
じきにイズベルへの譲渡に、気が変わる。

実は、イズベルは、マーシャルや叔母と最初に下見をした際に、
館のなかで、ぶうんと震動するような低く妖しい音を聴いた。
聞き耳を立てていると、急に心のとても深いところにある琴線に
触れられた気がした。
一度も触れられたことがない琴線。パッションそのものだ。

それは、彼女のみが感じられる音であり、感覚だった。

また、彼女は、ランヒル・コートの由来についても知ることになる。
それは、6世紀からの歴史があり、ウルフの塔と呼ばれていた。
ランヒル(丘)には、トロールが住んでおり、
塔の部屋の一部を消し去ってしまうという伝説も存在した。

再び下見に訪れた際、イズベルは鏡のなかに、
普段見る自分とは異なる自分を見る。
性的な甘美さに満ち溢れ、何もかもが魅惑たっぷりに見える自分。

そして、今までは見えなかった階段が、突然出現するのを見る。

階段を昇って、イーストルームという幻の部屋へ入り、
そこで、やはり何かに導かれたジャッジと出会う。
彼は、血色がよく、品格が落ち、精力的で、45歳程度にしか見えない。

窓からは陽光が射し、草や土や花々の新鮮で甘美な香りが入り込む。
館の敷地は消えてしまい、自然豊かな景色が広がる。
大昔のサクソン人のような服をまとう大男がひとり、
向こう向きのまま、古風な弦楽器を奏でている。

その音色は低く、大自然の風景そのものの声で、
聴いていると、繊細で情熱的な思念を強く感じる。
イズベルは、情熱的な大胆さでジャッジに身を任せようとするが
ふと新たな音色に我に帰り、白けた気持ちで部屋を出る。

その幻の世界で、3度ジャッジに遭った際に、
彼はこの謎を解くために、楽器を奏でる大男の方へ向かう。
イーストルームの窓から彼らを見るイズベル。
と、大男に正面から向き合ったジャッジは、
その顔を見、驚愕の表情を浮かべると、その場に倒れ伏す。

そして、イズベルも気を失い、その甘美で悲劇的な逢瀬は
終わりを告げる。

・・・

以上は、デイヴィッド・リンゼイ著、「憑かれた女」の粗筋である。
14年前に初めて読み、豊かな幻想性と神秘的な官能性を感じた。
夢幻の世界に入り込むため、今までに何回か読み返した小説だ。

舞台は、20世紀とはいえ、いまだ奥ゆかしい秩序に覆われる英国。
主人公のイズベルは、「全体に気品があり、身のこなしも優美」だが、
婚約者に対して、
「愛情という点で一番高い値段をつけてくれる人に自分を売るかもしれない」
と公言するような女性だ。また、「愛はもっと強いものでなくちゃ」と貪欲である。

そのような女性が、館で最初に妖しい音色を聞き、
「歓喜の情とともに、心が責め苦に苛まれたような恐ろしい絶望感を束の間、感じた」
というように、麻薬のような、甘美で恐ろしい官能に惹かれていく。
日頃の束縛から解放され、自分の欲望に正直になれる、
古典的に抑えた筆致で描かれるそのくだりが、この小説の妙である。

また、この作品の決定的な魅力は、
ウルフの塔の伝説に基づく、不思議で幻想的な雰囲気だ。
イーストルームでの逢瀬の場面は、読者の視覚、聴覚、嗅覚、触角に訴え、
甘美な世界のなかで、後ろ向きの大男への得体のしれない恐怖も感じるなど、
神秘的なイマジネーションの宝庫だ。

特に、かの大男の存在は、ヴェルヌの「地底旅行」に一瞬だけ遠景に登場する、
太古の生物と闘う巨人の恐怖を彷彿とさせる。

それにしても、ジャッジをショック死させた、大男の顔つき、表情は、
どのようなものだったのだろう。

たとえば、顔があるところに、真っ暗な真空が開いている。
または、その顔が自分のものと同じで、
当初の無表情から薄ら笑いが浮かび、急激に顔つきの品性を落としていき、
最後には獣の顔に変わる・・、というイメージ。それも恐ろしい。

さて、この小説の主軸はもちろん、
イズベルとジャッジの運命的な出会いと悲劇的な結末だが、
それに対比して、叔母とマーシャルの俗っぽさや現代性も愉しむこともできる。

他の男に入れ込んでしまった恋人とのよりを、
マーシャルが友人を介して戻す予感を感じさせながら、さらっと終わるところが
劇的世界から日常に戻った安心とちょっとしたユーモアを感じさせる。

「憑かれた女」(サンリオ文庫;1981年刊)


2015年12月20日日曜日

心のなかの幻想 ルネ・マグリット「光の帝国」

ルネ・マグリットは、小学生のときから
不思議な絵を描く画家として知っていた。
そして、高校生のとき、貰った名画カレンダーに含まれていた、
「光の帝国」を初めて見た。

ルネ・マグリット「光の帝国」

この絵がとても気に入って、就職して実家を出るまで
ずっと部屋に飾っていた。

青空の下に、森閑とした暗い空間が広がり、
邸宅の前の街灯が、あたりを柔らかく照らし出す。

青空は、日常や現世を表し、光に照らされた夜の空間は
孤独や郷愁や心のなかの幻想の世界を象徴する。

マグリットは「光の帝国」というタイトルの絵を数枚書いているが、
僕が好きなのはこの絵だ。
それは、光が水面に映えて、ほかの絵よりも明るさが増しているからだ。

「光の帝国」を見ていると、ホルマン・ハントの「世の光」を思い出す。
幼いころから教会で目にしていた絵で、懐かしい。
そういえば「世の光」も、森のなかで家の前に灯りをもって
あたりを照らす構図だ。
マグリットも、この絵に暗示を受けたのかもしれない。

ホルマン・ハント「世の光」



2015年12月13日日曜日

不思議な因縁 「木に挨拶をする」(内海隆一郎)

昨日の朝、いつもの公園へ歩きにいくと、
なじみのモリシマアカシアが根元から無残に折れて
ヒイラギナンテンにのしかかるように倒れていた。

しばらくその場にたたずんで、
8年ほど続いたその木との淡い交流に思いをはせた。

40ヘクタール以上ある公園のなかで、
知る限りでは、ただ1本のモリシマアカシアだった。
直径50cmはある老木で、樹皮は黒ずんで縦割れが進み、
触るとぼろっと落ちるくらいだった。
初めて見たときから、5mほどの高さで幹は折れて無く、
その幹から太い枝が横に伸び、葉や花をたくさんつけていた。

ある年、積雪のあとに見に行くと、枝の1本が雪の重みで折れていた。
そして、もう1本の枝だけが残った。

毎年5月半ばには、その1本の枝に、薄黄色のミモザの花を咲かせた。
ただ、今年はその花も、例年より白みがかっていたように思う。

その木の在る場所は、広葉樹の林のなかで、
威容の割にはあまり目立たなかった。
土日の朝の自分なりのウオーキングコースに当たるところなので、
モリシマアカシアと隣にある細長いエンジュにはタッチをして、
心のなかで挨拶をしていた。

その行為は、内海隆一郎著「木に挨拶をする」という本を読んでいたからだ。
本の帯にある、“自然の不思議な力、人間の秘められた能力”にちなんだ
素敵な随筆集である。

書名になっている冒頭の一篇は、著者が早朝散歩の際に
ある老紳士がきまって1本のザクロの老樹に挨拶をすることから始まる。
彼は、「やあ、おはよう。」と声をかけるばかりか、
雑草を踏みわけて行き、幹を両手で撫でながら話かける。

聞けば、3年前から朝の散歩を始めたが、丸1年たったころ、
しきりと誰かに声をかけられているような気がしたという。
「間もなくこの木と分かりました。わたしが梢を振りあおぐと、
その声が消えるんです、やっと気がついたねというように。」

それから彼は声かけて挨拶するようになった。
木も、例の声で挨拶を返すという。
「だんだん親しくなって、いまじゃこうして幹を撫でて
話しかけるようになりましてね。
・・・奇妙なことですが、そうするようになってから、
この二年のあいだ持病のリューマチがまったく治まっています」

著者は、時々この木の前を通るが、一度も呼びかけられたことがない。
「・・・やはり人を選ぶんでしょうか」と聞けば、老紳士は
「そんなことないと思いますよ。毎朝、挨拶していれば、
きっと応えてくれます」

それから著者は、ザクロの木に声をかけている。
「おはようございます。今朝もお元気そうで何よりですね」
敬語を使うのは、ザクロのほうが年長だからだ。
「今朝までのところ、まだ応答はない。」というところで
この一篇を終えている。

「木に挨拶をする」という本には、ほかにも不思議で魅力的な話が
いくつも掲載されている。

たとえば、「少女の指針」という一篇は、
1991年12月に、12歳で夭折した坪田愛華という少女の話だ。
彼女は、「地球の秘密」という漫画のリポートを書きあげた夜に、
脳内出血で急死した。
それまでは健康そのものであり、急死の兆候などまったく無かったという。

内海氏は、旧知の役場の職員から、その町に住んでいた少女の話を聞き、
彼女のリポートを見たいと願うが、一方で家族にとっては大事な遺品なので
それは望めないと半ばあきらめていた。

ところが、それから1週間もしないうちに、新聞で大きく取り上げられ、
全国から教材に使いたいという依頼が両親のもとに殺到したという。
すぐに印刷され、それでも足りずに増刷が続けられた。
著者もそのリポートをみて、完成度の高さに驚いている。

この一篇が正確にはいつ書かれたかはわからないが、
内海著書の発行日が1992年11月20日だから、少女の死から1年と経っていない。
その後、かのリポートは、1992年4月には英訳で五千部が発行され、
翌年には国連で受賞し、現在までに11カ国語、60万部が発行、
2004年には、遂に一般書籍化された。

著者は、それらの動きを先取りして、この一篇に紹介している。

このような不思議な話は、無理に集めたというより、
著者の内海隆一郎氏のもとに自然に集まってきたような気がする。
自然や人に不思議を感じるような心をもった人にこそ、
そのような話が集まってきて、作品として陽の目を見るのだ。

「木に挨拶をする」のあとがきには、ザクロの木の後日談が載っている。

「あれから三ヶ月ほどして、とつぜん空き地にブルドーザーが入った。
わたしが散歩の途中で見たときは、
すでにザクロは無残にも押し倒されたあとだった。
その日を境に、ザクロと親しくしていた老紳士とも出会うことがなくなった。」

この文章には、胸を衝かれる。

・・・

僕が、モリシマアカシアが倒れているのを発見した、まさにその日、
帰宅して朝刊を開くと、内海隆一郎氏が死亡欄に小さく出ていた。

この一事は、僕にとって、長く記憶に残るだろう。
内海氏は最後まで、不思議な因縁を感じる人だった。


2015年12月6日日曜日

全身での感応 (ゴッホの2枚の絵)

「ゴッホ書簡全集」を座右の書にしているという
金属加工業のかたわら文学に携わる人の記事を読んだことがある。
金属加工のイメージ、つまり繊細で、地道で、厳しい仕事を思い、
では、その人が常に手に取る読み物とはどのようなものか、
それを知りたくて6冊の全集を買い、斜めに読んだ。

書簡集を読むと、思い込みが激しく、行動力もあるひとりの男が
何を考え、どのように自らを導いたのかがあからさまにわかる。
フィンセントのあの苛烈な生き方の発想が、どのようなものかという
興味には充分応えてくれた。

ただ、読むほどに、彼の作品が見たい。
タイミングよく、ゴッホ展が開催された。10年前のことだ。

「夜のカフェテラス」、「ひまわり」、「黄色い家」、「種をまく人」、
「糸杉と星の見える道」、そしてパリ時代の自画像などが目玉の、
本格的な展覧会だった。
ゴーギャン、エミール・ベルナール、モンティセリなど、
書簡集に登場する画家たちの絵もあって興味が深まる。

よく知られた絵を間近に見て感じて、とても愉しめたが、
その会場で、特にふたつの絵に惹かれた。
印刷物でも見たことがなく、そのときが初見だった。

ひとつは、「サン=レミの療養院の庭」。

誰もいない療養院の中庭。
主役は、花々を咲かせた樹木と、地面を覆う草たちだ。
木々の花は、白、薄黄、ピンク、赤と色とりどりで、
葉の鮮やかな緑とともに、萌え出ずる様が感動的だ。
地の草々も天に向かうように伸び、勢いがよい。
コバルトブルーの空は美しく、またその青が地面に映えている。

ベンチがぽつんとあり、フィンセントを象徴しているように見える。
ただ、色彩鮮やかな植物と、黄色の療養院の壁に囲まれて
けして孤独な様子ではない。空の青は、ベンチにも映っている。

この絵を最初に見たとき、絵具の色があまりに鮮やかで、
しかもニスのせいで、木々や花たちが煌めくように光っていることに驚かされた。
とても100年以上前に描かれた作品とは思えない。
また、これは実物を見なければ、けして味わえない感動だ。
保管者側で、極めて丁寧に修復されているのだと思う。

「サン=レミの療養院の庭」(1889年)

出品されたなかで、もう1枚、好きな絵があった。
「夕暮れの風景」だ。

黄色とオレンジに彩られた夕暮れの空。
樹木や畑作の緑は、色を失いつつあり、
真ん中から置くへ続く道は、空の色を映している。
奥には青い屋根の建物があり、空の黄色と対している。

この絵のタッチは力強い。
手前の木は、立体的な塊りが鈴なりになっているようだ。
ぐぐっ、ぐぐっと音が聞こえるような筆の運び。
奥のこんもりとした樹木は、根元からの樹勢から枝葉を空に放ち、
まるで黒い炎が燃え上がっているように見える。
いずれも、黄色の空に、ほとんど黒のシルエットとして浮かぶ。

畑の作物は、あるものは整然と太く縦に並び、空間に広がりを感じさせる。
またあるものは地面に伏せており、地がうねるようにも見える。

そして、上半分を占める空。並行の太い線が幾重にも連なり、
陽の動きに伴い、まるで空全体が大きくゆっくり流れているようだ。

そのようなタッチの絵でありながら、不思議と安らぎと懐かしさを覚える。
そう。この絵の最大の魅力は、郷愁と孤独なのだ。
見る者の胸を締めつけるような情感を、この絵は湛えている。

「夕暮れの風景」(1890年)

この展覧会には、2回行った。
2回目は、開館直後に入り、まっすぐにこの2枚の絵の前に行き、
全身で絵から感ずるものを受けとめた。
そして、人々が多くなってくるまで、絵の前にいた。

この2枚は、好きなだけでなく、所有したい絵である。
部屋に飾って、ひとりでいつまでも見入りながら、酒を呑みたい絵である。