2015年8月30日日曜日

失踪のおそるべき謎(藤牧義夫)

藤牧義夫という版画家を、何かのメディアで知ったのだと思う。
2011年8月、彼の展覧会公式カタログを書店で買った。

昭和一桁の年代に活躍した、夭折の版画家。
その感性は極めてモダンで、当時の都会の様子を見事に表現している。

「新版画表紙(1935年7月以前)」

「赤陽」(1934年以前)

「夜の浅草六區(1934年)」
上に掲げた「新版画表紙」は、地下鉄から地上に出る口から、
空を見上げた光景だという。斬新な発想とシンプルな構図がうかがえる。
また、「赤陽」と「夜の浅草六區」は、都会の猥雑さ、力強さ、孤独さなどが
感じられる。いずれも印象に残る、素敵作品だ。

「朝靄」(1931年)
初期に発表された「朝靄」。
高架線路のガード下に、法被を着た二人の職人が歩いている。
ガードが途切れているのは、けして黒色がかすれているのではない。
靄(もや)のなかに高架が溶け込んでいるのだ。

「朝靄」というタイトルどおり、早朝の煙る空気のなか、
スタスタと二人の足音が聞こえるようだ。
またそれだけでなく、高架の力強い造形は、少しあとの活発な喧騒が予感され、
静かななかに、生きた街が感じられる。

「白ひげ橋」(1934年3月以前)

「白ひげ橋」は、都会の自由と孤独を、鉄橋の曲線と陽に映る影で
見事に現した作品だ。
現代と違い、都会であっても空は広い。
橋を渡りながら、行き交う車や空を見る人影は、
藤牧自身を投影したと思える。

藤牧義夫は版画家であるが、墨を使った肉筆絵画の巧さは、卓越したものがある。
正確なデッサン、達者な運筆。
無駄な線が一切なく、対象を正確に、あるがままリアルに描くことができる。

「書きたいそのものを、紙にぽんとおく以外はなにもしない。
紙にはどれも、ほどよい余白があって、それが凪いだ海のようだった。」
(「君は隅田川に消えたのか」より)
「太田豊治像」(1934年)

「飛行機」
藤牧義夫は、1911年に群馬県館林で出生。
画家として活躍し始めるが、1935年に突然失踪する。わずか24歳。
作品の魅力とともに、謎の行方不明に興味を覚えた。

2012年2月11日、書店で1冊の本と出会う。
「君は隅田川に消えたのか -藤牧義夫と版画の虚実」(駒村吉重 著)。

この本の前半は、彼の評伝である。

藤牧の出生時、彼の父親はすでに54歳であった。
生母を2歳で失った彼は、
つるつるに禿げ、白髭をたくわえた好々爺の父を、
深く敬愛した。懐深い父親であったという。

父が他界したとき13歳だった義夫は、その後1年あまりをかけて父の全集を編む。
そのことで、父と故郷への思いを切り、16歳の義夫は上京する。
図案家修業のかたわら、版画を出品し始め、
また21歳で新版画集団設立に参加し、その作品は徐々に認められていく。
そして、その活躍のさなかの1935年9月2日、彼は忽然といなくなる。

駒村著作の後半は、極めてミステリアスだ。

藤牧義夫が失踪する直前に会い、その作品を彼から預ったと自ら語る、
小野忠重を主軸に、ミステリーは展開する。
小野は、藤牧の2歳年長。1990年に亡くなった版画界の重鎮である。
彼は、藤牧失踪後、預った作品を発表し、彼の年譜を数回にわたりまとめている。

ただ、駒村著作によれば、小野のもとから出た藤牧版画の「七割は偽物だった」。
そして、その根拠をひとつひとつ論証していく。

たとえば、「父の像」という作品は、その父の姿を知る藤牧にしか描けないと
一般に信じられているが、それを発表した小野の矛盾点に、著作は次々と迫る。
素人であっても、藤牧版画と「父の像」ほか数点は、異なる画風であることが判る。

「父の像」
そして、駒村著作は、「父の像」と“たいへんよく似た作風を持つ版画作品”を挙げている。
「将軍」と題する肖像画で、造形、刷り具合、着色の手法は、
“「父の像」とうりふたつといっていい。”
作者は、小野忠重である。
「将軍」(小野忠重:1934年)
駒村著作は、藤牧の贋作や年譜の改ざんに小野が関係していると結論づけているが、
藤牧の失踪そのものと小野の関わりについては、明言を避けている。
そこには、状況証拠と言えるものすらないからだ。

ただ、小野は、藤牧の姉たち3人が亡くなってから初めて、
自分が最後に藤牧に会い、その作品を預ったと公表した。
それ以前の年譜には、藤牧が作品を「全部ひとの手に渡して」と、小野は書いていた。
このような重要かつドラマチックな事実を、なぜ小野は、ずっと後になって書き変えたのか。

駒村著作を通して、何かどす黒いものが、藤牧失踪の謎の前に
横たわっているのを感じた。
そして、「ゴッホの証明」(小林英樹著)を上回る興奮を感じた。

駒村著作と展覧会カタログ


2015年8月23日日曜日

遊びのなかの怪異 「スミ―」(A・M・バレイジ)

若者たちのクリスマスイヴ。食べ、騒ぎ、そろそろゲームの時間だ。
“かくれんぼ遊び”が提案された。しかし、年長のジャクソンは参加しない。
いつもと違う彼の言動に、みながその訳を聞きたがった。

「昔、ある屋敷でかくれんぼ遊びをしていて、
ひとりの女の子が階段から真っ逆さまに落ちて死んでしまった。」
「僕は、それとは別のことが起こったときに、その屋敷にいたんだ。
もっと悪いことがね。」

「それより悪いことなんて、考えられない。」と、誰かが言った。
「そう。そう思う。ただ、僕にはそう思えるということだ。」

「君たちは、スミ―というゲームをしたことがあるかい?」ジャクソンは言う。
「私が鬼、“It's me.”それを口語的に[S-mee]と云ったのが由来だ。」
「カードを配り、鬼、つまりスミ―を決める。スミ―以外の人は、誰がスミ―かわからない。
部屋を暗くして、スミ―は皆に気づかれずに部屋を出て行き、どこかに隠れる。
そのあと皆はスミ―を探しに行くんだ。」
「誰かに会ったら、『スミ―?』と尋ねる。スミ―でなければ『スミ―』と答える。
本当のスミ―は、尋ねられたときに答えてはいけない。
尋ねたほうは答えがなければ、黙って相手の片側に立つ。
そして、プレイヤー全員が一本の鎖のようにつながるまで続ける。
最後までスミ―を見つけられなかった者は、罰金だ。」

ジャクソンは以前、そのゲームを広い屋敷で行ったことがある。
それより昔、女の子の転落事故があった屋敷だ。

さて、ジャクソンが参加したスミ―。
ホストがビリになったとき、彼はマッチを擦って、階段で列になっている人数を数えた。
十三人いる。・・みなで十二人のはずなのに。

マッチは二回消え、三度目。人数は十二人だった。
ただ、自分たちの間に人がいた気がしたと、ある二人が言いだした。
本編の語り手、ジャクソンはそのとき、
「空中を何か不快なものが浮遊する感じがした」。

次に、ジャクソンがスミ―になったとき、
ホストの息子が、ジャクソンのいる反対側で、別のなにかを見つけていた。
目をつけていたタンスの戸を開けたら、誰がいたのだ。
彼はスミ―を見つけたと思った。手も触れた。
しかし、嫌な悪寒が走り、懐中電灯をつけると、誰もいなかったのだ。
彼は、「失神するかと思った」。

再び、ゲームが始まった。
ジャクソンは、西側の二階のカーテンの影に誰かが座っているのを見つける。
手を伸ばすと、女性のむき出しの肱に触れた。
一番乗りだ。彼は名を尋ねる。「ブレンダ・フォード」。

彼はその名を知らない。だからこそ、わかった。
このパーティーで初めて会った、背の高い、色の白い黒髪の少女。
きれいで、お高くとまっている。彼が話しかけても、それ以上の答えはない。
スミ―は沈黙のゲームだ。

それから、ゴーマン夫人がやってきた。彼女もスミ―の女ものの服地にさわり
快活に囁きかける。が、応答がないため、仲の良いジャクソンとお喋りを交わす。

しばらくして、ホストの息子が二人を探しに来た。
「僕がスミ―だった。君たち二人が罰金だ。みな長い時間待ったんだぞ。」
「ここにスミ―がいるよ。」と、ジャクソン。
だが、カーテンを開けると、だれもいない。
息子にとっては、不思議な体験は今日2度目だ。彼は奇妙な笑い声をあげる。

ジャクソンは、黒髪の少女に、スミ―のふりをして逃げたんだろう、と詰問する。
少女は否定した。
ホストの息子は、ジャクソンとゴーマン夫人がカーテンの影でいちゃついていた、
と言いふらす。ホストは、ジャクソンと二人になり、彼に非常識だと諭す。

「誰か他の人がいたんです。」ジャクソンは強く言った。
「誰かがスミ―のふりをしたんです。僕はそれが黒髪のフォード嬢だと信じています。」

ホストは彼を見つめ、ほとんどグラスを落としそうになる。
「何嬢だって?」
「ブレンダ・フォード。それが彼女が僕に言った名前です。」
ホストが言う。
「いいかい。僕は冗談は嫌いじゃない。ただ、やり過ぎてはいけない。
ブレンダ・フォードというのは、十年前にかくれんぼしていたときに
首の骨を折って死んだ女の子の名前なんだよ。」

*****

以上は、A・M・バレイジ作「スミ―」のあらすじだ。
文庫本で18ページの短編である。

怪異を語る今と、怪異の発生時と、その因となる事故が起こった時と、
3つの時制が語られる。
それに、スミ―の遊び方や、語り手が黒髪の少女をスミ―と思いこむ理由など、
短い内容のなかに、説明的な部分が多い。ある程度、結末も予想できる。

それでも、この短編が好きなのは、3つの時を通じた因果話になっているところだ。
古い屋敷のなかでかくれんぼ遊びをすると、決まって事故か怪異が起こる・・。
日本の「累」ほどの強い怨念ではないが、事故で死んだ女の子が
成仏できずに古い屋敷をさまよっている様子が思い浮かぶ。

単純で楽しいはずの遊びのなかに、もの哀しくもぞっとする感覚を取り入れた、
秀作であると思う。

「スミ―」が掲載された本(1991年刊)







2015年8月15日土曜日

カリブの闇の呪術 「ジャンビー」(H・S・ホワイトヘッド)

暑い夏。体温を上回る熱気。
そんな暑さに涼を求めて、日本では江戸時代からこのかた、
真夏に怪談話を好んできた。

幽霊譚の本場、イギリスでは、怪談の季節は冬だ。
相手への嫌がらせではなく、クリスマスプレゼントに怪談集を送る国柄だ。
妖精や心暖まる怪談(ジェントルゴーストストーリー)を含めて
あちらでは季節を問わず、怪奇幻想の物語が生活に根付いている。

ただ今回、暑い夏に敢えて取り上げたいのは、日本や英国の怪談ではなく、
米国人作家、ヘンリー・セントクレア・ホワイトヘッドの著作選集である
「ジャンビー」(国書刊行会 1977年刊)だ。

「ジャンビー」(国書刊行会)
H・S・ホワイトヘッド
八つの短編の舞台となるのは、カリブ海に浮かぶ西インド諸島。
1920年代後半から30年代初頭にかけて書かれたこれらの物語は、
現代的な怪談とは一線を画す。

すなわち、魔法医師(オビ・ドクター)の呪術や、
狼憑き(リカンスロープ)、犬憑き(カニカンスロープ)などが登場する、
まがまがしく土着的な怪異譚である。

現地を訪れている白人のケインヴィンを一連の主役にすえ、
淡々と物語を語らせる。
それでも、奇怪な事象と、それらの原因となる得たいの知れないものは、
昼夜を問わないじっとりとした暑さを、物語の舞台に感じるにも関わらず、
読む者に、背中を黒く冷たいものが覆うような恐怖を与える。

たとえば、「カシアス」は、野鼠のような邪悪なものが、特定の人物を襲う。
それは、その人物から切り取られた腫瘍であり、さらに言えば、
双生児の小さな片割れ、つまりその人物の兄弟なのである。

不当に扱われたことによる憎悪を動機として、
野鼠のようなものは飛び跳ねながら、
自分を切り離した男の身体に、小さく鋭い歯を剥く・・。

アントニー・バウチャー作の「噛む」に登場するカーカーよりはずっと弱く、
最期は飼い猫に殺られてしまう結末だが、
もの悲しい不気味さを感じる傑作である。

なお、表題のジャンビーとは、オビの呪いにより喚び出された邪霊のことだ。
仏領の島々では、ゾンビとも呼ばれる。

この本は、大ファンであるところの荒俣宏が訳・監修を行っている。
ドラキュラ叢書と銘打たれた10巻本のなかの1冊だが、
山田維史氏の挿絵とともに、一読忘れえぬ印象を受ける本だ。

「樹の人」挿絵(山田維史)

「カシアス」挿絵(山田維史)


2015年8月9日日曜日

哲学と暴怒の間の幻影(駒井哲郎)

駒井哲郎は、版画界ではメジャーな存在だろう。
ただ、僕が気になり始めたのは、ここ数年のことだ。

以前、フランス絵画の展覧会に行った際に、
別の部屋に、駒井作品がずらりと並べられていたことがある。
そのときは、モノクロームの暗い絵ばかりだという印象だけが残った。

その後、古書店などで彼の画集を観るうちに、
「束の間の幻影」に代表されるような宇宙的な広がりをもった絵が好きになってきた。

「束の間の幻影」(1951年)

また、同じ年に制作された「地下室」も、孤独な詩情を湛え惹かれる。

「地下室(ヴィラ・メイズの地下部屋)」(1951年)

駒井は、もの静かな長身の貴公子然とした風貌だったが、
いったん酒が入ると深く泥酔して、知人宅へ台風のように来襲しては
悪態を吐き、くだを巻いたという。

彼の作品も、静かな幻想を感じさせるものだけでなく、
荒れ狂う怒りをたたきつけたような絵もある。
これらを観ると荒涼とした気持ちになるが、ぐっと眼をとらえて離さないものがある。

「暗い絵」(1968年)

「作者の肖像」(1968年)

駒井哲郎は、もともとエッチングから始め、さまざまな銅版画の技法を経て、
56歳という早い晩年には、エッチングに戻っていった。
樹木やビンなどの静物を何度も描いているが、
そこには哲学的な趣きや、象徴的な意図が感じられる。

「樹木」(1958年)
「影」(1971年)

駒井作品は多様で、いろいろな観方、楽しみ方があると思う。
これからじっくりと、自分のなかに取り込んでいきたい。

****

最後に、気に行っている自作のメゾチント版画を挙げる。
高校の美術の授業で制作したもので、エッチングとメゾチントを技法として選ぶ際に
迷わず後者にした。暗いなかに灯の光を描きたかったからだ。
当時、とても愉しんで描き、刷ったあとに彫り直す手直しもした。
駒井作品と並べるのは誠に気が引けるが、銅版画の面白さに目覚めた記念として。

無題(1980年)





2015年8月1日土曜日

スリリングな伝承奇譚 「江戸の悪霊祓い師」

これも20年ほど前のこと。古書店で1冊の本を買った。
高田衛著「江戸の悪霊祓い師」。
前半は、累が淵の伝承を忠実に記した「死霊解脱物語聞書」を
読者と共に読み解くスタイルになっている。

“累が淵”。
子供のころ、四谷怪談より怖い話がある、それが累が淵だと母に教えられた。
そして大人になってから、映画でも怪談落語でもなく、
この本で、実録としての無類の怖さと面白さを知り、惹き込まれた。

累が淵の伝承を以下に記す。

寛文12年(1672年)、正月四日。
下総国羽生村の百姓金五郎の妻、菊が患い付く。
菊は、数え14歳。現代でいえば、小学校を出たくらいの歳である。

菊の父は与右衛門。
菊の母は、菊の結婚(前年12月)に先立つ4か月前に亡くなっている。

正月二十三日、菊の病状は俄かに異常化し、彼女は七転八倒する。
与右衛門、金五郎は「菊よ、菊よ」と呼び返すに、
ややありて菊は息を吹き返し、与右衛門をはたとにらみ、
「我は菊にあらず、汝の妻の累なり。廿六年前、よくも責め殺しけるぞや。」

つまり、26年前に、与右衛門は妻の累を鬼怒川の淵で殺し、
その霊が菊にとり憑いたのである。
また累は、与右衛門が迎えた妻を6人を、次々ととり殺したとされる。
菊の母が6人目である。

累は、顔かたち、あまつさえ心ばえも類なき悪女であったという。
彼女は、与右衛門により、またそれを黙認したムラにより、抹殺された。

与右衛門の出家にも菊の憑依は落ちなかったが、
村人総出の祈祷で二度までも霊は菊から離れた。
ところが、菊の三度目の憑依に、村の名主は驚き呆れ、遂に高僧の祐天を招く。
祐天は六人の衆僧と共に必死で念仏を唱えるが、累はとり憑いたまま。

ついに祐天は、天に雄叫びをあげ、阿弥陀仏をなじり奇蹟を請い、
菊にも力づくで念仏を唱えさせる。さしもの霊も、これで退散する。
除霊成功の嬉しさに、祐天は昂奮して眠れないほどであった。

ところが、ひと月余がたち、菊の身体に死霊が四度目の再来をした。
このたびの憑依は凄まじく、菊は「宙にもみあげ顛倒し、五体も赤く熱悩して、
眼の玉も抜け出し」と、オカルト映画の一場面のようである。

それを聞いた祐天は呆然とする。が、強い意志で霊と対峙し、
遂にそれが、今までの累の霊ではなく、今は去る61年前に、
累の母に殺された助という童子の霊だと判明する。
助は、累の成仏をみて「裏山しく思ひ」来たのだという。
祐天は、童子の霊の哀切な運命を思い、成仏を遂げさせる・・。

この「江戸の悪霊祓い師」は、その後、祐天聖人その人の謎に迫っていくが、
僕には、畳みかけるような「累」の因果話がスリリングで、何より面白かった。

面白かった理由は、もととなる文献が実録であり、誇張はあるにせよ
実際にあった事柄を再現していることにある。
そして、この説話の弁士である高田衛氏の巧みな語り口に、感銘を受けた。



実録スタイルをとる怪異譚や怪事件の話は多くあるが、
僕の原点は、子供のころに読んだ幽霊話、
それに、中学1年のときの槍ヶ岳山荘で
身体をくっつけて隣に寝ていた当時の若い山男に、
槍ヶ岳の伝説話の本を借りて読んだことだろう。