2015年1月25日日曜日

静かな景色(牛島憲之)

NHK日曜美術館のアートシーンで、初めてその絵を観た。

夏の真昼。
瓜の茎と大きな葉が前面に配され、
後方には電柱がおぼろに見える。
満ちあふれる光のなかで、
湧きあがる雲がうっすらと描かれる。

幼いころの夢の一瞬を切り取ったような
もうろうとした懐かしい景色。

「炎昼」

画家は、牛島憲之。
古書の図録を注文し、雨のなか、
郊外の古書店まで受け取りに行った。

行った甲斐があった。

ほとんどが、静かさを感じる風景画。
淡い色調だが、さまざまな色が混じり合って
深みをたたえている。

特徴的なのは、空や地面を広く配していることと、
奇妙な曲線が描かれていること。
開放的で独特な雰囲気が生まれている。

題材は、工場、ガスタンク、団地などの現代的な建造物も多いが、
それぞれが重厚な存在感がある。

「聖堂」
もっとも好きな絵は、「晴日」だ。

広々とした公園。休日なのだろう。
木陰に憩うひと。散歩を楽しむひと。
背の高い街灯。穏やかで懐かしい。
文字どおり“一幅の絵”のような景色だ。

牛島憲之の図録は、いま2冊。
時折、本棚から取り出しては観入り、
静かな景色を愉しんでいる。

「晴日」


2015年1月18日日曜日

薄気味わるい夢(谷中安規)

今から11年前。新聞に美術展の紹介記事があり、版画のモノクロ写真が載った。
「春夜」と題されたその絵は、おちょぼ傘を持つ、いかにも飄々とした人物のまわりに、
大胆に面を区切って建物が配され、それぞれに影絵のように人物が見えた。

モダンで、猥雑さを感じさせる絵。
とても心に残った。
以来、谷中安規という、その版画家を記憶した。

ある日、その作品のひとつを目にする機会があった。
完全に、引き込まれた。「蝶を吐く人」である。

・・部屋のなかに、素裸の男がいる。
男は、口のそばに手をかざし、その口から一匹の白い蝶を吐いたところだ。
大きく切り取られた窓の外は、明るい月夜であろうか。
明かりが部屋のなかを照らし、壁に、口をあけた男と蝶の拡大された影が映る。

蝶は一匹ではなく、窓の明るさを背景に、大きなシルエットになって空中に浮かぶ。
部屋の床は、一面を覆うばかりのハスの花か。
部屋の左の仕切りは斜めに倒れ、右側の壁はいつしか無くなり、
裸の男女が祝いごとのように葉のついた木を掲げ、行進している・・。

これが、悪夢でなくて何であろうか。
こちらまで、おかしくなりそうな不思議な絵だ。

蝶を吐く人


作者の谷中の評伝「かぼちゃと風船画伯」を読んだ。彼は、まったく世俗とはなじまない人。
30代で、ようやく版画家として名が売れてきたが、服装に構わず、金銭感覚はまるでなし。
いつも生ニンニクをかじり、失恋の痛手に、寺の本堂で毎夜裸で踊り狂う。

いや、僕は、アーティストがどういう人間でもいい。
その作品に魅力があれば、まったき市井のひと、温和な生活人で、全然構わない。
ただ、おそろしい版画の作者は、あまりにもぴたりと、おそろしい魔物だった。

谷中安規の版画に、好きな絵はいくつもある。
シンプルにしてモダン。表現主義の影響を受けた絵、可愛らしい挿絵もある。
父の遺品の、内田百閒作「居候匆々」(昭和17年 2刷)。
この挿絵も谷中作とわかり、慌てて見直した。

冒頭の記した、2004年の美術展の図録。
古書価は高かったが入手した。その充実度は、飽きることがない。
本当に絵が巧いなあという感嘆と、溢れ出る妖夢の空恐ろしさに、
忘れ得ない感動を残す、素晴らしい一冊。

そのなかで、好きな絵、というよりも、震撼させられた絵をふたつ。
谷中、34歳ころ。これもモダンな、60年代の集合住宅思わせる建物。
あろうことか、巨大な裸婦が団地によりかかり、または地べたに寝そべる。

「飛ぶ首」は、寝そべる女の向こうに飛び跳ねる人造人間の、
頭だけが切れて宙に浮き、首のない彼は、その頭を指し示すように躍動している。

女の存在は、とてつもなく謎で、怖い。
情景はまさに、白昼夢。タイトルに“薄気味悪い”と付けたが、
薄いどころか、もっと深い心情に迫る怖さだ。

ビルによる女

飛ぶ首












2015年1月12日月曜日

おのれをともしびとし 「神無き月十番目の夜」

今まで読んだ小説のなかで、
もっとも力強く、もっとも魅力的で、もっとも怖ろしい。その3拍子を併せ持つ。
それが、飯島和一著、「神無き月十番目の夜」だ。

江戸の初期、ひとつの村の民が皆殺しとなる。
序章から、起きてしまった惨事が語られる。
そして、3章からなる年代順に、その悪夢の過程が明らかになるのだ。

結末に、怖ろしい状況が待っているのに、そこへ突き進まざるを得ないスリル。
たたみかけるような文体。
ただ、それだけが、この小説の読みどころではない。

沈着冷静、情もあり、かつ、いざというとき恐ろしい力を発する、嘉衛門。
この魅力的な人物が、序章にしか出てこないところに、心底うならされる。
それに、石橋藤九郎。3つの章にわたり、成長し、統率し、時代に抗えず、いなくなる。
この藤九郎が真に伝えたかったのは、ほかの誰にも支配されない自分の領域を守れ、
ということではなかったか。

己を灯とし
己を拠とせよ
他のものを拠とするな

「おのれをともしびとし、おのれをよりどころとせよ。」

藤九郎が佐市に与えたその言葉どおり、
佐市は2度も、自分を枷からはずし、新たな天地へ旅立つ。
それがこの小説の真骨頂であり、感動的だ。



2015年1月4日日曜日

エーテルが満ちる夜(M・C・エッシャー)

僕が中学生のとき、父がM・C・エッシャー著「THE MAGIC MIRROR」(英語版)を買ってきた。それまで、僕にとってのエッシャーは、“トリックの画家”ほどのイメージであった。が、その本で、彼は素敵で少々偏執的とも言えるデザイナーであること、そして何より、幻想的な風景画家であったことを知った。

エッシャーは、20代から30代にかけて、主にリトグラフや木版で、風景や挿絵を描いた。風景画は実在のモデルがあると思われるが、その絵を見ると、幾何学的な面や奇妙な曲線で形作られていて、或る様式美が感じられる。そして、その絵の背景には、細かな粒や線が質量の存在を感じさせるように描き込まれている。

「THE MAGIC MIRROR」のなかで僕が特に惹かれたのは、邸宅のような建築物が、街灯やフットライトに照らされて、夜の闇に浮かび上がる絵だ。

Nocturnal Rome, Basilica of Constantine

灯りが届かない空にも細かく白い線描がなされ、まったくの闇はない。まるで周りの空間が、エーテルで満たされているようだ。人の気配がないにも関わらず、そこには濃密な予感や不思議な明るさが感じられる。

僕の生家は、ケヤキやマツの木立に囲まれた大きな団地だ。夜になると街灯がともり、芝生にはさまれた4階建ての集合住宅が白く浮かび上がる。僕は4歳までこの団地に住んだ。幼い僕が夜のベランダから見た景色は、きっと似たものであったに違いない。

この絵は、1934年に描かれた連作「ローマの夜」のひとつだと、後年になってわかった。夜の闇を満たすエーテルのイメージは、その後も僕の心から離れない。


2015年1月1日木曜日

書きとどめる

好きな本を読む、好きな絵を観る、好きな曲を聴く。
そのつど心は躍るけれど、やがて静まる。

何に心が沸いたか。
その心の動きを、少しでも書きとどめられたら。

かたくなな、自らの鎧が融けるように。
そして、誰かが気まぐれで、立ち寄ることができるように。