2015年12月27日日曜日

神秘的な官能性 デイヴィッド・リンゼイ「憑かれた女」

今から1世紀ほど前の英国サセックス州。
そこに、ランヒル・コートという城館がある。
資産家の叔母と流浪生活を送る25歳のイズベルは
その館が気に入り、婚約者であるマーシャルを通じて、
城館の持ち主であるジャッジに譲渡を申し込む。

ジャッジは58歳のやもめ。
二十歳下の妻を亡くしたばかりで、当初は館を売るのを断るが、
じきにイズベルへの譲渡に、気が変わる。

実は、イズベルは、マーシャルや叔母と最初に下見をした際に、
館のなかで、ぶうんと震動するような低く妖しい音を聴いた。
聞き耳を立てていると、急に心のとても深いところにある琴線に
触れられた気がした。
一度も触れられたことがない琴線。パッションそのものだ。

それは、彼女のみが感じられる音であり、感覚だった。

また、彼女は、ランヒル・コートの由来についても知ることになる。
それは、6世紀からの歴史があり、ウルフの塔と呼ばれていた。
ランヒル(丘)には、トロールが住んでおり、
塔の部屋の一部を消し去ってしまうという伝説も存在した。

再び下見に訪れた際、イズベルは鏡のなかに、
普段見る自分とは異なる自分を見る。
性的な甘美さに満ち溢れ、何もかもが魅惑たっぷりに見える自分。

そして、今までは見えなかった階段が、突然出現するのを見る。

階段を昇って、イーストルームという幻の部屋へ入り、
そこで、やはり何かに導かれたジャッジと出会う。
彼は、血色がよく、品格が落ち、精力的で、45歳程度にしか見えない。

窓からは陽光が射し、草や土や花々の新鮮で甘美な香りが入り込む。
館の敷地は消えてしまい、自然豊かな景色が広がる。
大昔のサクソン人のような服をまとう大男がひとり、
向こう向きのまま、古風な弦楽器を奏でている。

その音色は低く、大自然の風景そのものの声で、
聴いていると、繊細で情熱的な思念を強く感じる。
イズベルは、情熱的な大胆さでジャッジに身を任せようとするが
ふと新たな音色に我に帰り、白けた気持ちで部屋を出る。

その幻の世界で、3度ジャッジに遭った際に、
彼はこの謎を解くために、楽器を奏でる大男の方へ向かう。
イーストルームの窓から彼らを見るイズベル。
と、大男に正面から向き合ったジャッジは、
その顔を見、驚愕の表情を浮かべると、その場に倒れ伏す。

そして、イズベルも気を失い、その甘美で悲劇的な逢瀬は
終わりを告げる。

・・・

以上は、デイヴィッド・リンゼイ著、「憑かれた女」の粗筋である。
14年前に初めて読み、豊かな幻想性と神秘的な官能性を感じた。
夢幻の世界に入り込むため、今までに何回か読み返した小説だ。

舞台は、20世紀とはいえ、いまだ奥ゆかしい秩序に覆われる英国。
主人公のイズベルは、「全体に気品があり、身のこなしも優美」だが、
婚約者に対して、
「愛情という点で一番高い値段をつけてくれる人に自分を売るかもしれない」
と公言するような女性だ。また、「愛はもっと強いものでなくちゃ」と貪欲である。

そのような女性が、館で最初に妖しい音色を聞き、
「歓喜の情とともに、心が責め苦に苛まれたような恐ろしい絶望感を束の間、感じた」
というように、麻薬のような、甘美で恐ろしい官能に惹かれていく。
日頃の束縛から解放され、自分の欲望に正直になれる、
古典的に抑えた筆致で描かれるそのくだりが、この小説の妙である。

また、この作品の決定的な魅力は、
ウルフの塔の伝説に基づく、不思議で幻想的な雰囲気だ。
イーストルームでの逢瀬の場面は、読者の視覚、聴覚、嗅覚、触角に訴え、
甘美な世界のなかで、後ろ向きの大男への得体のしれない恐怖も感じるなど、
神秘的なイマジネーションの宝庫だ。

特に、かの大男の存在は、ヴェルヌの「地底旅行」に一瞬だけ遠景に登場する、
太古の生物と闘う巨人の恐怖を彷彿とさせる。

それにしても、ジャッジをショック死させた、大男の顔つき、表情は、
どのようなものだったのだろう。

たとえば、顔があるところに、真っ暗な真空が開いている。
または、その顔が自分のものと同じで、
当初の無表情から薄ら笑いが浮かび、急激に顔つきの品性を落としていき、
最後には獣の顔に変わる・・、というイメージ。それも恐ろしい。

さて、この小説の主軸はもちろん、
イズベルとジャッジの運命的な出会いと悲劇的な結末だが、
それに対比して、叔母とマーシャルの俗っぽさや現代性も愉しむこともできる。

他の男に入れ込んでしまった恋人とのよりを、
マーシャルが友人を介して戻す予感を感じさせながら、さらっと終わるところが
劇的世界から日常に戻った安心とちょっとしたユーモアを感じさせる。

「憑かれた女」(サンリオ文庫;1981年刊)


2015年12月20日日曜日

心のなかの幻想 ルネ・マグリット「光の帝国」

ルネ・マグリットは、小学生のときから
不思議な絵を描く画家として知っていた。
そして、高校生のとき、貰った名画カレンダーに含まれていた、
「光の帝国」を初めて見た。

ルネ・マグリット「光の帝国」

この絵がとても気に入って、就職して実家を出るまで
ずっと部屋に飾っていた。

青空の下に、森閑とした暗い空間が広がり、
邸宅の前の街灯が、あたりを柔らかく照らし出す。

青空は、日常や現世を表し、光に照らされた夜の空間は
孤独や郷愁や心のなかの幻想の世界を象徴する。

マグリットは「光の帝国」というタイトルの絵を数枚書いているが、
僕が好きなのはこの絵だ。
それは、光が水面に映えて、ほかの絵よりも明るさが増しているからだ。

「光の帝国」を見ていると、ホルマン・ハントの「世の光」を思い出す。
幼いころから教会で目にしていた絵で、懐かしい。
そういえば「世の光」も、森のなかで家の前に灯りをもって
あたりを照らす構図だ。
マグリットも、この絵に暗示を受けたのかもしれない。

ホルマン・ハント「世の光」



2015年12月13日日曜日

不思議な因縁 「木に挨拶をする」(内海隆一郎)

昨日の朝、いつもの公園へ歩きにいくと、
なじみのモリシマアカシアが根元から無残に折れて
ヒイラギナンテンにのしかかるように倒れていた。

しばらくその場にたたずんで、
8年ほど続いたその木との淡い交流に思いをはせた。

40ヘクタール以上ある公園のなかで、
知る限りでは、ただ1本のモリシマアカシアだった。
直径50cmはある老木で、樹皮は黒ずんで縦割れが進み、
触るとぼろっと落ちるくらいだった。
初めて見たときから、5mほどの高さで幹は折れて無く、
その幹から太い枝が横に伸び、葉や花をたくさんつけていた。

ある年、積雪のあとに見に行くと、枝の1本が雪の重みで折れていた。
そして、もう1本の枝だけが残った。

毎年5月半ばには、その1本の枝に、薄黄色のミモザの花を咲かせた。
ただ、今年はその花も、例年より白みがかっていたように思う。

その木の在る場所は、広葉樹の林のなかで、
威容の割にはあまり目立たなかった。
土日の朝の自分なりのウオーキングコースに当たるところなので、
モリシマアカシアと隣にある細長いエンジュにはタッチをして、
心のなかで挨拶をしていた。

その行為は、内海隆一郎著「木に挨拶をする」という本を読んでいたからだ。
本の帯にある、“自然の不思議な力、人間の秘められた能力”にちなんだ
素敵な随筆集である。

書名になっている冒頭の一篇は、著者が早朝散歩の際に
ある老紳士がきまって1本のザクロの老樹に挨拶をすることから始まる。
彼は、「やあ、おはよう。」と声をかけるばかりか、
雑草を踏みわけて行き、幹を両手で撫でながら話かける。

聞けば、3年前から朝の散歩を始めたが、丸1年たったころ、
しきりと誰かに声をかけられているような気がしたという。
「間もなくこの木と分かりました。わたしが梢を振りあおぐと、
その声が消えるんです、やっと気がついたねというように。」

それから彼は声かけて挨拶するようになった。
木も、例の声で挨拶を返すという。
「だんだん親しくなって、いまじゃこうして幹を撫でて
話しかけるようになりましてね。
・・・奇妙なことですが、そうするようになってから、
この二年のあいだ持病のリューマチがまったく治まっています」

著者は、時々この木の前を通るが、一度も呼びかけられたことがない。
「・・・やはり人を選ぶんでしょうか」と聞けば、老紳士は
「そんなことないと思いますよ。毎朝、挨拶していれば、
きっと応えてくれます」

それから著者は、ザクロの木に声をかけている。
「おはようございます。今朝もお元気そうで何よりですね」
敬語を使うのは、ザクロのほうが年長だからだ。
「今朝までのところ、まだ応答はない。」というところで
この一篇を終えている。

「木に挨拶をする」という本には、ほかにも不思議で魅力的な話が
いくつも掲載されている。

たとえば、「少女の指針」という一篇は、
1991年12月に、12歳で夭折した坪田愛華という少女の話だ。
彼女は、「地球の秘密」という漫画のリポートを書きあげた夜に、
脳内出血で急死した。
それまでは健康そのものであり、急死の兆候などまったく無かったという。

内海氏は、旧知の役場の職員から、その町に住んでいた少女の話を聞き、
彼女のリポートを見たいと願うが、一方で家族にとっては大事な遺品なので
それは望めないと半ばあきらめていた。

ところが、それから1週間もしないうちに、新聞で大きく取り上げられ、
全国から教材に使いたいという依頼が両親のもとに殺到したという。
すぐに印刷され、それでも足りずに増刷が続けられた。
著者もそのリポートをみて、完成度の高さに驚いている。

この一篇が正確にはいつ書かれたかはわからないが、
内海著書の発行日が1992年11月20日だから、少女の死から1年と経っていない。
その後、かのリポートは、1992年4月には英訳で五千部が発行され、
翌年には国連で受賞し、現在までに11カ国語、60万部が発行、
2004年には、遂に一般書籍化された。

著者は、それらの動きを先取りして、この一篇に紹介している。

このような不思議な話は、無理に集めたというより、
著者の内海隆一郎氏のもとに自然に集まってきたような気がする。
自然や人に不思議を感じるような心をもった人にこそ、
そのような話が集まってきて、作品として陽の目を見るのだ。

「木に挨拶をする」のあとがきには、ザクロの木の後日談が載っている。

「あれから三ヶ月ほどして、とつぜん空き地にブルドーザーが入った。
わたしが散歩の途中で見たときは、
すでにザクロは無残にも押し倒されたあとだった。
その日を境に、ザクロと親しくしていた老紳士とも出会うことがなくなった。」

この文章には、胸を衝かれる。

・・・

僕が、モリシマアカシアが倒れているのを発見した、まさにその日、
帰宅して朝刊を開くと、内海隆一郎氏が死亡欄に小さく出ていた。

この一事は、僕にとって、長く記憶に残るだろう。
内海氏は最後まで、不思議な因縁を感じる人だった。


2015年12月6日日曜日

全身での感応 (ゴッホの2枚の絵)

「ゴッホ書簡全集」を座右の書にしているという
金属加工業のかたわら文学に携わる人の記事を読んだことがある。
金属加工のイメージ、つまり繊細で、地道で、厳しい仕事を思い、
では、その人が常に手に取る読み物とはどのようなものか、
それを知りたくて6冊の全集を買い、斜めに読んだ。

書簡集を読むと、思い込みが激しく、行動力もあるひとりの男が
何を考え、どのように自らを導いたのかがあからさまにわかる。
フィンセントのあの苛烈な生き方の発想が、どのようなものかという
興味には充分応えてくれた。

ただ、読むほどに、彼の作品が見たい。
タイミングよく、ゴッホ展が開催された。10年前のことだ。

「夜のカフェテラス」、「ひまわり」、「黄色い家」、「種をまく人」、
「糸杉と星の見える道」、そしてパリ時代の自画像などが目玉の、
本格的な展覧会だった。
ゴーギャン、エミール・ベルナール、モンティセリなど、
書簡集に登場する画家たちの絵もあって興味が深まる。

よく知られた絵を間近に見て感じて、とても愉しめたが、
その会場で、特にふたつの絵に惹かれた。
印刷物でも見たことがなく、そのときが初見だった。

ひとつは、「サン=レミの療養院の庭」。

誰もいない療養院の中庭。
主役は、花々を咲かせた樹木と、地面を覆う草たちだ。
木々の花は、白、薄黄、ピンク、赤と色とりどりで、
葉の鮮やかな緑とともに、萌え出ずる様が感動的だ。
地の草々も天に向かうように伸び、勢いがよい。
コバルトブルーの空は美しく、またその青が地面に映えている。

ベンチがぽつんとあり、フィンセントを象徴しているように見える。
ただ、色彩鮮やかな植物と、黄色の療養院の壁に囲まれて
けして孤独な様子ではない。空の青は、ベンチにも映っている。

この絵を最初に見たとき、絵具の色があまりに鮮やかで、
しかもニスのせいで、木々や花たちが煌めくように光っていることに驚かされた。
とても100年以上前に描かれた作品とは思えない。
また、これは実物を見なければ、けして味わえない感動だ。
保管者側で、極めて丁寧に修復されているのだと思う。

「サン=レミの療養院の庭」(1889年)

出品されたなかで、もう1枚、好きな絵があった。
「夕暮れの風景」だ。

黄色とオレンジに彩られた夕暮れの空。
樹木や畑作の緑は、色を失いつつあり、
真ん中から置くへ続く道は、空の色を映している。
奥には青い屋根の建物があり、空の黄色と対している。

この絵のタッチは力強い。
手前の木は、立体的な塊りが鈴なりになっているようだ。
ぐぐっ、ぐぐっと音が聞こえるような筆の運び。
奥のこんもりとした樹木は、根元からの樹勢から枝葉を空に放ち、
まるで黒い炎が燃え上がっているように見える。
いずれも、黄色の空に、ほとんど黒のシルエットとして浮かぶ。

畑の作物は、あるものは整然と太く縦に並び、空間に広がりを感じさせる。
またあるものは地面に伏せており、地がうねるようにも見える。

そして、上半分を占める空。並行の太い線が幾重にも連なり、
陽の動きに伴い、まるで空全体が大きくゆっくり流れているようだ。

そのようなタッチの絵でありながら、不思議と安らぎと懐かしさを覚える。
そう。この絵の最大の魅力は、郷愁と孤独なのだ。
見る者の胸を締めつけるような情感を、この絵は湛えている。

「夕暮れの風景」(1890年)

この展覧会には、2回行った。
2回目は、開館直後に入り、まっすぐにこの2枚の絵の前に行き、
全身で絵から感ずるものを受けとめた。
そして、人々が多くなってくるまで、絵の前にいた。

この2枚は、好きなだけでなく、所有したい絵である。
部屋に飾って、ひとりでいつまでも見入りながら、酒を呑みたい絵である。

2015年11月29日日曜日

夢の具現とまぼろし(フォーゲラー)

幻想美術を紹介する冊子で、ハインリッヒ・フォーゲラーの絵を初めて見た。

夕暮の花の園に、女性がもの想いにふける。
まとっている布は薄く、体の線が露わになる。
大きな花の光輪は、彼女を守護するようだ。

油彩でありながら、イラストレーションを思わせる繊細なタッチ。
女性の美と幻想的な景色への憧れと賛美が感じられる。

夢(1912年)

淡い幻想的な絵を産み出す画家を想像してフォーゲラーを調べてみると、
初期には、木々や小川などの自然に囲まれた景色に
女性がたたずむような絵が多い。
いずれも、彼の妻となるマルタをモデルにしていると云われる。
抒情的で少し物憂げだが、そこにはやはり、神秘的な憧れを感じる。

春(1897年)

あこがれ(1899年頃)

また、銅版画は、背景となる豊かな自然を細かく描写し、
そのなかに女性を配して、ひとつの物語を思い浮かべられるような
そんな絵が多い。
春(1896年)

夏の夕べ(1902年)

死がバラを摘む(1904年)

彼は、自らの夢と物語を現実化しようとした。

ヴォルプスヴェーデという小さな村に移住し、
農家を改造してバルケンホフと称する住居をつくった。
白樺をはじめ、自分好みの樹木を植えて庭園を設け、
7年来思い続けた少女を妻として、そこに迎えた。

まさに、人為的につくられた楽園だ。

バルゲンホフ(1910年)

ただ、フォーゲラーは、自分の創った世界に執着し、自分のことばかりを考え、
周囲には自分の世界における役割を求めたと云う。
そんな利己的な理想郷は、長続きしなかった。

また、彼は豊かな才能から、挿絵やデザインの仕事に活路を見出すが、
そうして稼いだ金さえ、慈善や住居の増築に入れ込んだ。

レダ(1912年頃)

フォーゲラーは、妻との距離を縮めようと努力したようだが、
おそらく彼の視点は一度も妻や周囲を主役に据えることなく、
一方的な思いで終わったように思う。

結局、彼は50歳を前に家族と別居し、ロシア人の女性と再婚して
ソ連に拠点を移す。そこでも紆余曲折があり、70歳を前に彼は窮乏死する。

夢の具現であるバルケンホフと、そこでの家族との生活は、
まぼろしのように消え去ったのだ。

フォーゲラーのバルケンホフ前での写真を見ると、
結婚して間もない頃であるのに幸福感が感じられず、
強く意思を示す口元と、神経質そうな表情が見て取れる。
結婚前のマルタの初々しい写真と併せて見ると、
その後の人生が思われて痛々しい。
フォーゲラー(1902年頃)

マルタ
冒頭の絵、「夢」は、やはりマルタをモデルにしていると言われる。
ただ、この絵を描いたとき既に、彼と妻の距離は
修復できないほど隔たっていた。

彼は若くして、自分の夢を形にしたにも関わらず、
それが自分の思い描く夢にはなり得なかったことに苦悩したのだ。
その現実から逃れ、自分の憧れをイメージするために、
「夢」と題する絵を描いたのだと思う。

2015年11月22日日曜日

聖と性のイコン (エリック・ギル)

高額な古書を求めるため、ネットオークションに血道を上げていた14年ほど前。
何度か洋書を買い求めた出品者から、1冊の本がおまけで付いてきた。
「Troilus and Cressida  A Love Poem in Five Books」。
1932年ニューヨークでの発刊、B5版で300ページ超の本である。

その本が印象的だったのは、本文の全ページに、
木版のカットが施されていたことだ。
洗練された様式美。ユーモラスで官能的だ。

「Troilus and Cressida」

(同上)

 描いたのは、エリック・ギル(Eric Gill)。
彫刻家、版画家、書体デザイナーでもある英国人で、
アーツ・アンド・クラフト運動に参加したという。

彼の木版画を調べると、どこか魅力的なものが多い。
図録を2冊購入した。

聖画像(イコン)として描かれたものは、
明確な線としっかりとした構図で、力強さを感じる。
ただ、人物の表情や執拗に描かれた波線などに
異様な印象も受ける。

Nativity (1927)

The Crucifixion (1926)

Ascension (1918)


一方、挿絵やデザイン画は、より自由奔放な線で描かれており、
ディティールの描き込みや、ユーモラスな味わいを愉しめる。

The fall of Wolsey (1937)

The Crucifixion (1931)


そして、女性(女体)を描いたものは、流れるような線で起伏を表現し、
官能的な美を情感豊かに描いている。
画家の思い入れが深い分、観る側も絵のイメージが湧き、
もっとも愉しめるジャンルになっている。

Approaching Dawn (1927)

On my Bed by Night (1925)

The Bird in the Bush (1928)

The Dancer (1925)

Leda loved (1929)

Eve (1926)

Famale Nude (1937)

Famale Nude,Standing (1937)





2015年11月15日日曜日

鉱物への愛 A・E・フェルスマン 「石の思い出」

中学1年のときに、山歩きで水晶のかけらを見つけて以来、石が好だ。
今でも、形が整っているきれいな石があれば、拾って手元に置いている。
パワーストーンというわけではないが、できるだけ手で触って楽しめる石がよい。

さて、10年前。新聞の書評で、ロシアの鉱物学者の随筆集が紹介された。
アレキサンドル・エフゲニェビッチ・フェルスマン著「石の思い出」(堀秀道 訳)。
日本では1956年に刊行されたが、今回は同じ訳者による新訳での再刊である。
 
「石の思い出」(2005年 草思社刊)
著者は、まえがきに書いている。
「『石の思い出』は、ある人生の歴史であり、
自然へ寄せた風変わりな愛情の記録であり、
五十年もの長い時間をかけて探りつづけた自然の秘密でもあります。」

そして、自分の生涯のほとんどを使い果たし、新しい時代を迎えたいま、
「あたかも、朝の蜃気楼の輪郭が、
晴天のまぶしい日差しを受けて消え失せるように、
これらの思い出の情景は溶け去ろうとしています。」

フェルスマンは、生命のない大地の石たちに、
半世紀に及ぶ強い愛情をかけ、それらの言葉を学んだ。
そして、鉱物の存在や、その誕生と死滅の秘密を知り、
秘められた本質や調和と秩序の法則に親しんだ。

それにより、彼は、コスモスの理念を知り、
また、自然の運命と人間の運命とは、
切り離せない絆で結ばれていることを学んだという。

彼は、ひとつひとつの思い出のきらめきのなかから、
「必要なものだけを選び出し、うまく未来を見通して、
自分の力と生命を十分にその未来へ引き渡す」、
そのように思い出というものを理解したのだ。

これらの言葉は、この随筆の骨格を成す。
自分の愛情を信じ、しかも執着せず、いさぎよい。
静かな意思が読む者に伝わり、共感を産む。

本書は19章で構成されるが、そのうちのひとつが、
「サアーミ族の血」。

フェルスマンは若いころ、サアーミローピ族の老婆から伝承を聞く。
彼女の先祖が、侵入者のシベータ族から
自分たちの土地を守った話だ。
ローピ族に追われたシベータ族は、最後には石になったが、
闘争の間、ローピ族もたくさんの血をツンドラに流した。

そして、フェルスマンの興味は、“サアーミ族の血”。
つまり、血のように赤いユージアル石、希金属である。
「自由と生命のために流された血ほど貴いものがないように、
美しさといい量といい、この地のユージアル石に匹敵するものは
世界中どこにもないのである。」

短いながら、伝説と科学との両立が面白い章である。

また、「カラダーク火山で」という章。
大学卒業間近、“私”は念願の火山調査のため、クリミア半島へ旅に出る。
連れは、女学生のシュローチカ。度が過ぎるくらい理性的であったという。

旅は順調で、ついにカラダーク火山が見える海辺に着いた。
そこで彼らは“病気”にかかる。

豊かな自然のなかで、彼らは子供に帰り、すっかり怠け、
自分たちのみつけた美しい石を自慢しあった。
シュローチカは熱っぽい目でそれらの石を見つめた。
石が彼女をすっかり活性化し、彼女のなかに新しい人間が目覚めたのだ。

ようやく彼らは火山に登る。そそり立つ絶景。
そこで彼らは、ローズ色の瑪瑙の鉱脈を発見する。
「ああ、シュローチカがどんなに喜んで、
鋭く硬いこの鉱物を打ち割ったことか。」

彼女は断崖にいることも忘れ、片手で岩につかまり、
もう一方の手で結晶を力いっぱい叩いていた。
“私”は彼女に気をつけろ、と注意する。
すると、シュローチカの目に、以前と同じ異常な光が浮かんだ。
ある種の熱情、熱狂の火花。彼女はより上へと登り、
そこで素晴らしい鉱脈を見つけて、歓喜の声をあげる。

絶壁に身を寄せ、ぐらぐらした岩の上で身を支えていた彼女。
だが、次の瞬間、鋭い叫び声と崩れる岩音、水のざわめき、
そして死んだような静けさ・・。

三日後、美しい礫の上で波に打たれている彼女が発見された。
「それ以来、“私”は鉱物の調査にはも連れて行かないのです。」

フェルスマンは、知人である“私”から話を聞いたことになっている。
だがそれは、フェルスマン自身の身の上と思える。

無機物である石たちに魅入られた人間のドラマが、
理知的だが詩情を感じさせる筆致で描かれていて、好もしい。

また、訳者は20歳のときにこの本を訳し、
半世紀を経て、再度訳業に取り組んだ。
このような仕事の仕方が、ただ、うらやましい。






2015年11月7日土曜日

創られた熱情と没入する魂 アッテルベリのピアノ協奏曲

スウェーデンの作曲家、アッテルベリの作品を8年ほど聴いている。
交響曲1番と2番が好きだ。
自分の葬儀には、2番の第1楽章をかけてほしいと願っていた。
(さすがに長いので、今はスクリャービンのピアノ曲、「ワルツ 作品38」がいい。)

アッテルベリ交響曲1番&2番

上記のふたつの交響曲よりも、頻度高く聴いているのは、彼の唯一のピアノ協奏曲だ。

第1楽章は、大仰で憂愁な旋律で始まる。
それは、運命的な悲劇を感じさせ、また熱に浮かされたような音楽である。

第2楽章は、弦のかすかな伴奏に合わせて、
ピアノが孤独にさすらうようなメロディーを奏でる。
そして、抒情的なオーケストレーションが盛り上がり、
徐々に静まり、いったん孤独のなかに浸る。
また、高鳴りをみせ、劇的な転調と共に、ピアノとトランペットが輝かしく歌う。
この曲の見せ場のひとつである。
その後も、遥か天上のまぼろしのように、ピアノとオーケストラとが
しばらくの間、語り合う。

突如、ピアノの天上から雪崩れ落ちる音が鳴り響き、
怒涛のように畳みかける、壮麗な第3楽章が始まる。
途中には、1楽章の悲劇的な憂愁や、2楽章の夢幻の響きが再現されるが、
明確な意思をもって怒涛の波が押し寄せ、華麗に天空に昇って、曲を締めくくる。

この曲には、意図的に創られた熱情と、そこに敢えて没入する魂がある。
そのような時期を象徴する曲として、忘れ難い。

アッテルベリ ピアノ協奏曲

2015年11月1日日曜日

大自然に侵される恐怖 A・ブラックウッド 「ウェンディゴ」

幻想文学を読むようになってから、アルジャーノン・ブラックウッドの著作を
何冊か読んできた。

ファンタジックな「ジンボー」や「妖精郷の囚われ人」。
神秘的・教条的な「ケンタウロス」。
オカルトと謎解き趣味が強い短編集、「ジョン・サイレンス」。
ほかに、邦訳短編集が2冊。

そのなかで、何度か読み返すのは、「ウェンディゴ」と「犬のキャンプ」だ。

いずれの作品も、人智を超えた底知れぬ大自然を舞台に、
その自然の原始的な力に感応してしまう人間、
つまり被害者でもあり、奇怪な現象そのものにもなってしまう霊媒のような、
そんな人物が話の主体となる。

「犬のキャンプ」は、怖さのなかにも読後の爽やかさと青春の切なさがあり、
好もしい作品だ。が、今回は、恐怖に徹した「ウェンディゴ」を取り上げる。

***

・・極北、辺境の地、カナダ。奥深い森林に、4人の仲間が狩猟をしに来る。
そのなかのひとり、ケベック生まれの案内人、デファーゴ。
彼は狩りや野営に詳しく、唄やホラ話もお手のもの。
ただ、「荒々しい自然に非常に鋭い感受性をもち、
未開の中の孤独を追求するのに、執念ともいえるロマンチックな情熱」をもつ。

不猟であったその年、彼らは獲物を求めて、まだ未開の西の湖へ赴くことにするが、
デファーゴは乗り気ではない。何かを恐れている。
ただ、彼は気を取り直し、2手に分かれた一方で、主導的な役割を果たす。

ところが、同伴者の依頼で、彼が唄を湖に響かせていると、
突然彼は緊張して唄をやめ、瞬間、驚くべき機敏さで立ち上がり、空気の臭いを嗅いだ。
犬がするようにせわしなく、あらゆる方向に向かって。
ついに、湖に向かって何かを“嗅ぎつける”。
彼は震え、顎の先まで真蒼になっていた。

しばらくして落ち着いたデファーゴは、彼の唄を端緒として、
ウェンディゴを呼び覚ましてしまったと語る。

ウェンディゴとは何か?
「そいつはな、光のようにす早いやつでな、森にいるどんな獣より大きいんだ。
おまけに眼にも見えないときてやがる。それだけよ。」

案内人と同伴者は、テントで眠る。ふと同伴者が物音に眼を覚ますと、
デファーゴが木の葉のように震えている。次の瞬間、凄まじい音が、
ある種の声が、天空から聞こえてきた。<デー・ファー・ゴー>

その声を聞いたデファーゴは、猛烈な勢いでテントをはねのけると、
雪の大地へと消え去った。同伴者はつれの名を大声で叫んだが、
そのとき、妙に熱狂した歓喜の声、デファーゴの声が聞こえ、去った。
「ああ、ああ、おれの足が焦げてる!ああ、ああ!こんなに高く、こんなに速く!」
まだ揺れているテントのなかは、かすかな奇妙な臭いが残っていた。

若い同伴者は、デファーゴを探すうち、雪のなかに大きな獣のような足跡と
かの案内人の足跡を見つけ、あとをつける。
そのうち、それらの足跡は飛ぶように信じられない距離に歩幅を広げ、
まもなく彼は「いったい何の足跡を追っているのかわからなくなってしまった。」

ひとつは野生の何者かに属する足跡で、ひとつは彼の同志のものであったのが、
何とも得体の知れぬ異形のものに変貌してしまったのである。

疲労と混乱の極みに、ついに恐れていたそれがやってきた。
頭上の、はるかな高みに、同伴者は、デファーゴの弱々しい泣き声を聞いたのである。
「ああ!ああ!熱い!ああ、おれの足が焦げてる!足が焦げてる!」
叫び声は、二度と聞こえなかった・・。

二昼夜の悪夢をみた同伴者は、他の2人組と再会し、恐怖の状況を共有した。
緊張による長い沈黙の末、デファーゴの相棒の案内人は突如、
夜の闇に向かって鼓膜の破れんばかりの喚き声を発し、あるリズムを作り出す。
いわく、「デファーゴを呼んでるんでさ。」

その瞬間、それに応えるかのように、
空を覆いつくす何ものかが、おぞましい速度で暗い上空を走り抜けた。
同時に、かすかな人間の叫び声も聞こえる。
そして、木立のなかを、デファーゴが落ちてきた!

デファーゴは、よろめく足取りで一同に近づいてきた。
「帰ってきましたぜ。誰かに呼ばれたのでね。」干からびた、振り絞るような声。
彼の顔は動物のようで、妙なプロポーションで、あの臭いがまとわりついていた。
そして、彼の相棒が叫ぶ。「あいつの足を見ろ!あんなに変わっちまってる!」

人間ではなく、妖魔そのもののデファーゴが、喘ぎ声を出す。
「あんたも見たんだな。俺の焦げた足を見たんだな!
でなけりゃあ、おれを助けることができたのに・・」

突如、湖から風の唸り声が、彼らを包囲し、デファーゴは
誰もが留める間もなく消え去っていた。
天空から彼の叫び声が、地上の三人の耳に届いた。

夜明けとともに、三人は黙々と帰途に着く。
日暮れにテントにたどり着いた彼らは、
焚き火の跡に、灰の中を動き回るデファーゴを再び見出したのである。

今度は、彼はほんもののデファーゴであった。
ただ、虚脱状態で、火を起こすこともおぼつかず、
背丈は信じられぬほど縮んでいた。

彼は正気に戻ることなく、数週間後に死んでいった。
彼の仲間たちは、いやおうなく事情を理解していた。
デファーゴが、ウェンディゴを見たのだということを・・。

***

この物語は、大自然に侵される怖ろしさが強烈に伝わってくるが、
何よりも筋立てとして興味を引かれるのは、
拉致されたデファーゴが二度も、戻ってくることである。

一度目は、獣へと化身した姿で、そして再び戻ってきたときには、
獣から脱することはできたが、それで精根尽きてしまった姿で。

“ウィンディゴ”とは、アメリカ北端の原住民に伝わる精霊の呼び名だが、
“ウィンディゴ症候群”という症例もあるという。つまり、
「このままでは自分がウィンディゴに変化してしまう」という強い恐怖心を伴い、
病が進行すると、食物を拒絶し、生活する能力を喪失してしまう。

英国人のブラックウッドは、若いころに世界を旅したという。
アメリカの北部で、この恐るべき伝承を聞き、
彼は大いに触発されて、この傑作を書いたのだと思った。

「ウェンディゴ」所収の「ブラックウッド傑作選」

パルプマガジン(1944年6月)の「ウェンディゴ」挿絵


2015年10月25日日曜日

幻の記憶 「ねむり穴」

小学2年生。クラスの学級文庫に、とても面白い本があった。
書名は、「ねむり穴」。

アメリカの、古くからある村に赴任してきた教師が主人公。
村には、“ねむり穴”という場所があって、その付近では不思議なことが起こる。

夜中に音楽がかすかに聴こえるので行ってみると、
村人たちが月明かりのもと、輪になって踊っている。
楽しそうに、でも、にぎやかな音はない。

また、昼間そのあたりで遊んでいたり、本を読んでいたりすると、
決まってもうろうとしてきて、眠りに引き込まれる。
夕方になって目を覚まし、慌てて逃げ帰る。

それから、村には、馬にまたがった首なしの騎士の幽霊が出て
人々を怖がらせる。

教師は、夜道でその幽霊に遭ってしまい、そのまま行方不明になる。
ところが、しばらくして、別の町に行った村人が、
くだんの教師がなぜか偉くなって、その町に平然と住んでいることを伝える。
・・・

その本は、2年生の教室で繰り返し読んだが、
学年が変わると共に、物語は記憶だけとなり、
その後、30代の半ばまで、その本の筋をおよそ並べると、以上のようになる。

魅力的だったのは、村人たちが月明かりの下で幻のように踊る場面、
それに、いなくなった教師が、全然別のところでひょっこり生きている、
という最後のおちである。

今の趣味に繋がる幻想性を帯びていると思う。

そして、30代の半ば。
レイ・ブラッドベリの「刺青の男」を読み直していたら、未来の禁書の一冊に、
ワシントン・アーヴィング著「眠り洞(うろ)の伝説」、とあった。
いささか興奮した。かの本には原作があったのだ。

レイ・ブラッドベリ「刺青の男」

すぐに調べたところ、アービング著、「スケッチ・ブック」の一編である、
「スリーピー・ホローの伝説」が、まさに該当作だと判明した。
当時、インターネット古書店で、最初に購入した本が、
新潮文庫のその本だった。

アーヴィング著「スケッチ・ブック」
その後また、10年程度が経過し、ふと思い立って
ネットオークションで検索をかけたところ、「ねむり穴」の出品があった。
すぐに応札して、安く入手できた。

届いた本は、1964年12月に日本書房から発行された、
アービング原作、大石克己・文、石垣好晴・絵になるものである。

大石克己 翻案「ねむり穴」
まず、表紙が記憶と違った。
覚えている表紙は、主人公が本を持って立っていて、
暗い背景のなかで、目を回している様子だったはずだ。

また、一読して驚いたのは、村人たちが月明かりに踊る記述がないこと。
手をつないだ絵まで記憶していたのに、その場面がなく、半信半疑だった。

国会図書館を検索すると、「ねむり穴」は同じ翻案者で
1961年発行となっている。
表紙は、もしかすると版が変わったときに入れ替わったと推測することもできるが、
その際、踊りの場面をわざわざカットすることも考えにくい。

30年近く自分のなかで醸成された、まったくの幻なのだろうか。

ただ、その幻の記述に、その後の趣味が影響を受けているので、
ウロボロスのようにどちらが先か、わからなくなってきている。







2015年10月18日日曜日

イマジネーションの宝庫 「妖精画廊」

大学時代、疲れた体と頭を癒すため、
大学図書館の4階にある美術書の部屋へ、しばしば寄った。
気分転換のためだけでなく、演劇の舞台の発想を湧かせる目的もあった。

絵画、建築、デザイン、写真など、さまざまな本を眺めたが、
重厚な本が多いなかで、何度も手に取る薄いソフトカバーの画集があった。

タイトルは「妖精画廊」。
“挿絵黄金期の絵師たち”と副題があり、編者は、荒俣宏である。
タイトルの「妖精」は、荒俣が企画した、今はなき月刊ペン社の“妖精文庫”の
別冊した発刊されたことに依ることを、後年知った。

ともかく、この本に出てくる挿絵たちは、どれも素晴らしい。
僕は、どれほどイマジネーションを刺激されたことか。

「妖精画廊」目次

「The Blue Bird」(F.Cayley Robinson)

薄い本なのに、美しい絵が豊富に掲載されている。
最初に本を開いたときの驚きは、まだ覚えている。

この本のおかげで、エリナー・ボイル、リチャード・ドイル、ウォルター・クレイン、
エドワード・バーン・ジョーンズ、ウィリアム・ティムリンなどの画家の名を知った。
また、ウィリー・ポガニーは、岩波の絵本「金のニワトリ」の挿絵画家で、
子供のころからあるその本を、改めて見直した。

それに、何度見返しても惹き込まれる絵がある。
羽帽子をかむり、装飾的なドレスに身を包んだ少女が、
ベンチで本を読み、こちらを振り向いたところである。
少女は蠱惑的であでやかな表情を浮かべる。
対照的に、少女の膝に載る犬は無表情でこちらを見る。

この絵が好きなのは、少女がいる場所だ。
森のある公園のなかなのだろうか。
木々はあるが、淡い光の向こうに、うっすらと見える。
この光は、朝もやか、それとも夕暮のエーテルか。
不思議な空間である。

in THE STRAND MAGAZINE
マリオ・ラボチェッタの絵は、荒俣宏と同様に、この本で最も好きなもののひとつだ。
色合いが素晴らしく、細部も入念に描いている。
じっと見つめると、曲線が動き出して、軽いめまいを覚えるほどだ。

「Tale of Hoffmann」(Malio Laboccetta)

(同上)
上の左ページの絵にあるランプは、演劇部で舞台に出すパネルの図柄に用いた。
このパネルに囲まれた舞台は、それだけで異空間となった。


モノクロの絵も、素敵なものがある。
ジョン・オースティンの掲載作は、直線を効果的に用いた背景と
十二等身ほどにデフォルメされた人物が、モダンを感じさせる。

「Don Juan by Lord Byron」(John Austen)

(同上)
その後、社会人になって、念願のこの本を古書店で購入した。
また、やはり古書店で「妖精画廊 Part2」を見つけ、喜んで購入した。
そして、20年ほど前に、「新編 妖精画廊」を書店で見つけ、
こちらも迷わず購入した。

「妖精画廊」3冊
以下は、「妖精画廊 Part2」で印象的なものから。

「秘密の山」(K・タウンドロー)

「自然の殿堂」(J・フュスリ)

「トロイリスとクリシダ」(エリック・ギル)

「ガルガンチュワとパンタグルエル」(R・A・ブラント)
そして、「新編 妖精画廊」から以下を。
続編もそれぞれ、美しいカラーの図版が多いが、
モノクロの絵に不可思議な魅力を湛えた絵が多い。

「BOOK OF WONDER」(シドニー・H・シーム)

ハリ―・クラーク

後年、これらの挿絵本を、自分でも所有することになった。
マリオ・ラボチェッタの実物は、心底素晴らしかった。

「Tale of Hoffmann」(Malio Laboccetta)

(上掲部分)

“come not, Lucifer!”(R・A・BRANDT)