2015年9月27日日曜日

常宿の窓からの夜景 「ナイトランド」(W・H・ホジスン)

荒俣宏が企画した幻想文学シリーズ「妖精文庫」(月刊ペン社)。
そのなかの一作である「ナイトランド」(ウィリアム・ホープ・ホジスン著)は、
二段組、上下各200ページを超す大作であり、
未来の暗黒世界を壮烈なビジョンで描いた小説である。

物語は、妻を亡くして悲嘆に暮れる男が、夜眠りに落ちると
遥か未来世界で目を醒まし、妻の生まれ変わりと言える少女と
遠く離れて交感し、闇の世界に少女を探しに行くというもの。

深く広い闇の世界(ナイトランド)には、人を捕食する怪物や悪霊が跋扈し、
絶滅に瀕した人類は、それらの怪物たちを監視する塔を造り、
各所で籠っている。

主人公は、苦難の末にヒロインを助ける騎士そのまま、
闇に向かい、怪物たちと交戦する。

・・・

「妖精文庫」版の挿絵は、まりの・るうにい。
本文の挿絵は残念ながらモノクロだが、
表紙には、縮尺されてはいるものの、カラーで印刷された絵が載り、
その色合いの美しさを観ることができる。





この長大な作品を読んだのは、16~17年前のこと。
ちょうど、東京や横浜での単身赴任生活に入る頃だった。

横浜(東神奈川)では、老婦が経営する旅館を常宿にしていた。
風呂や洗面やトイレが共同のこの旅館で、
その共同トイレの2階窓から眺める景色が思い出される。

夜の闇のなかに高い建物が浮かび、頭頂部分がサーチライトのように光っている。
まるで、「ナイトランド」に出てくる監視塔のようだ。
僕は用を足すときに目の当たりにするこの景色を観ながら、
「モンストルワカン(怪物警備官)」といつもつぶやいていた。



この塔は、実はスーパーの建物で、当時“SATY”であった。
風呂やトイレに行く際は、眼鏡をせず裸眼であったため、
夜の景色もぼんやりとしかみえず、このような想像に至ったわけである。

ちなみに、「ナイトランド」の原作の挿絵は、以下のようなものであったという。
もし、このような絵で本を読んでいたら、旅館の窓からの景色を観ても、
「ナイトランド」は発想し得なかっただろう。



「ナイトランド」を始めとする「妖精文庫」シリーズは、
まだネットオークションやショッピングサイトが活性化する以前に、
偶然見つけた個人のサイトから相対取引で購入したものだ。

幻想文学というジャンル、特に海外の翻訳ものに焦点を当てて、
収集、読破しようと意気込んでいた時期で、いま思い出すと懐かしい。

2015年9月23日水曜日

画家自らの反映 東山魁夷 「コンコルド広場の椅子」

東山魁夷が亡くなって、作品や評伝を新聞やテレビで見るうちに
彼の絵がいいと思うようになってきた。
その頃に個展も観に行き、実物の青や緑の深さを体感した。

その後、東京出張の合間に書店へ寄った折に
「コンコルド広場の椅子」という彼の詩画集を見つけた。
淡く静かだが、豊かな色彩の絵と、余白をたっぷりとった贅沢な造本に惹かれた。



パリのコンコルド広場に置かれた椅子たち。
画家は、かれらの声を聴くことによって、詩を紡ぐ。
季節の移り変わり。まわりの人間たち。

若い娘が腰かけるのが最も嬉しいのだという。
椅子は、画家と同じ性である。
否、画家が自らを映して、椅子に語らせているのだろう。



広場から動けない椅子たち。ただ、かれらも夢をみる。
夢のなかでは、かれらは自由に動けるし、空も飛べる。
エッフェル塔に向かい、ルーブルからノートルダム聖堂を超える。
サクレ・クールから凱旋門を経て、シャンゼリゼ通りを一直線に
広場へ戻ってくる。


夢の風景は、もの売りの屋台店にぶらさがる、
絵葉書だけのパリだった。
落ち葉が舞い落ちて、椅子の上に葉が載った。
もうすぐ冬である。

この詩画集の最後の一葉は、
雨のなか、ホテル・クリヨンと街灯を背景にして、たたずむ椅子の絵。
人のいない広場で、ひとり建物と対峙しているように見える。






2015年9月13日日曜日

薄暮のなかの神秘 シダネル「黄昏の白い庭」

自分の記録によれば、5年前の誕生日は休日で
朝から美術展や本屋をまわった。

その「ベルギー王立美術館コレクション」展で、
とても惹かれる作品に出会った。

薄暮のなかの、芝生の庭が描かれている。

庭は長方形で、手前から奥に長いほうの縁が延びている。
手前の辺とそれに続く長辺のまわりは、
あじさいのような花をたくさんつけた、膝くらいの高さの植え込みが
まるで薄緑色の堤防のように縁取っている。

長辺の堤防の外側には隣接して、背丈以上もある植え込みが
もっと青白い毬のような花を一面につけて、
植え込みの樹自体もそれぞれが球体のように刈り込まれて
厚く庭を囲っている。

それぞれの長辺のまん中あたりは、そこだけ植え込みが途切れて、
縁の少し奥に、白くがっしりした2人掛けのベンチが置いてある。

向かって奥の辺だけは、花の植え込みではなく石の柵で仕切られていて、
そのまん中には石段が3段あり、こけしのような太い2本の石柱の間は
人が通れるほどに開いている。
そこから庭の外に出て、奥に続く森のなかに入っていくことができる。

庭の奥に広がる森は、ところどころに不思議な光を放つ。

夕暮の庭には、だれもいない。静寂が覆っている。
ただ、そこは、花の香りと森の精気に満ちている。
静かだが、生命の神秘に溢れている。

この魅力的な絵の前で立ちつくし、この豊かな幻想に浸った。


アンリ・ル・シダネル「黄昏の白い庭」(1912年)

アンリ・ル・シダネルの作品は、そのとき初めて観た。
ほかにも素敵な絵をいくつも描いていた。

その後開催された「アンリ・ル・シダネル展」には行くことはできなかったが、
図録だけは手に入れて、その薄暮に煌めく光と幻想的な空気を楽しんでいる。

2015年9月6日日曜日

形見分け 「素白随筆」

父が亡くなる1~2年前、たぶん2000年前後だったと思う。
父から1冊の本をもらった。

カバー代わりに、薄い茶色の紙にくるまれており、
小口が水でふやけてゴワゴワとなり、かつ日焼けで茶色に変色している。
きれいとはとても言い難い。
紙カバーの表紙に、薄い鉛筆の父の字で、以下のように書かれていた。

“形見分け
 売る時は
 神田古書店 泰川堂へ(東京資料)
 稀コウ本”

背に、丁寧でもない毛筆で、「素白随筆」とある。
著者は、岩本堅一。号が「素白」である。
明治16年(1883年)に東京で生まれ、
早稲田大学の国文科の教授など生涯を教員として過ごし、
昭和36年(1961年)に亡くなった。

「素白随筆」は、1963年刊。単行本400ページを超える量。
読み応えがあるが、ひとつひとつの随筆は長くない。
江戸から続いた風情や文化が、明治の近代化政策と
関東大震災と戦災とで失われてしまったことを偲ぶ内容となっている。

そのなかで、「東海道品川宿」と題する13篇があり、特に味わい深い。

品川は、江戸から東海道を下るところの第一の宿である。
街道の出口にあたる宿として他に、陸羽街道は千住、甲州街道は新宿、
中山道は板橋であるが、それらの宿は震災と戦火で当時の面影は既になく、
ただ品川だけは、この随筆が書かれた昭和30年代までは
海に沿った通り筋が昔のまま残っていたという。

著者は、明治中期の品川に育ち、少年の得を生かして、
“如何なる場所へもはいつて行き、如何なる人物の言葉も逃さず聞”き、
“少年の眼”で“鋭く物を直観”した。

むかし、品川には、大小の妓楼が数多くあった。
廓というものは、表は華やかで実は陰惨極まるものだ、と著者はいう。
娼家と背中合せに寺があり、それらの家の窓下には墓地がある。
品川の町は甚だ寺が多い。それだけ需要が多かったに違いない。
また、「投げ込み寺」といって、無縁仏を大きな穴に投げ込んで
むしろをその穴にかけるだけのところもあったとか。

暗い面ばかりでなく、当時の市井の人々も描かれている。
たとえば、人に頼まれて買い物に行ってくれる「使ひ屋さん」がいた。
“五十がらみの頑丈な人で・・・正直律儀の象徴のように、
年の割には時代遅れに過ぎる丁髷を戴いて居た。”
交通の不便な明治時代には、“東京市内”への買物代行は重宝がられたようだ。

著者は子供のころ、その母が使い屋に注文した、孝経や孟子を読経した。
そして、それらの本が、“宿場町の女達の注文の品と一緒の風呂敷に
包まれて来たかも知れないと思ふと、今なお微笑を禁じえない”と
ユーモラスにその文章を結んでいる。

以前僕は、東品川に数か月勤務したことがあり、
宿の平和島から、鮫洲を経て、青物横丁に通勤していた。
また品川は、母の実家や母校からほど近い。
だから、かの地には親近感があるのだが、この随筆に書かれた内容は
今の品川の様子からは、まったく想像できない。

さて、父が書き残した、“神田の泰川堂”は、まだ経営していた。
謎だった「東京資料」も、「東京資料会」という学術書関係の会として存在し、
泰川堂も会員だった。

ただ、「素白随筆 1963年刊」を検索すると、函、帯付きで、安いのは二千円からある。
この本は内容は実に豊かで、消えてしまった江戸の風情への哀愁を感じさせるが、
本としてはかなり汚いので、古書店へ売っても、二束三文にもならないであろう。
だから、生前の父からの形見分けとして、大切にするつもりである。

「素白随筆」(1963年刊 春秋社)