2016年1月31日日曜日

驚異と神秘への誘い ベルヌ「地底の探検」

1970年のある地方都市。
父に連れられて街なかへ行った帰り、
おそらくは父の思いつきで、バスではなく徒歩で
自宅まで戻る途中だった。

すでに夜で、しかも霧が出ていた。
父も歩くのは初めてらしく、どう道をたどったのか、
古本屋に偶然出くわした。
店の灯りが暗い路面を照らしている。

店に入ると、子供心に大きな空間だと思った。
本ばかりでなく、玩具や切手なども置いてあり、
夜なのに他の客もいて、にぎやかだ。
しばらく見回ってから、宇宙切手のセットを父に買ってもらい、
その店を出た。

角を曲がるときに振り返ると、夜霧を透かして店の灯りが
ぼうっと見えたのを覚えている。

またその店を再訪したくて、日中に父にせがんで連れて行ってもらった。
ところが、父が思うあたりをいくら探しても、店が見つからない。
結局、その日は店を見つけず終いだった。

父は、霧の夜に入ったあの店は、
実はまぼろしだったんじゃないか、と言いだした。
宇宙切手もカラフルであるが、その時分に収集していた日本切手と比べると
シールみたいで、化かされているかもしれない、というのだ。

母も興が乗って、今度は母や妹も含め4人で、古本屋を探しに行った。
そして・・・、その店はあった。
昼間に入ってみると、神秘性は薄れたが、
やはり品揃えはよく、よい店だったのだと思う。

前置きが長くなったが、その店で買ってもらったのが、
“ベルヌ名作全集6「地底の探検」”だ。
ジュール・ヴェルヌの著作との、初めての出会いである。

1968年 偕成社刊 「地底の探検」
「地底の探検」裏表紙
冒頭から、ルーン文字、スナイフェトル、スカルザリスなどの
謎めいた言葉が出てきて、胸を躍らせる。
また、旅の間に何度も登場する錬金術師の名、
アルトニ・サクヌッセムという響きもよい。
彼が文字どおり、驚異と神秘の世界へ誘うのだ。

この小説は、冒険の山場がいくつもあって面白く、何度も読み返した。
途中で行き止まりとなり、引き返すうちに水がなくなる場面、
それに、主人公のアクセルが、連れとはぐれてしまう場面は
文字どおり、息苦しい展開だ。

地底の海のイカダ航での、海獣との遭遇、嵐の襲来、計器の不調など
その後も立て続けに事件が発生する。
漂着後には、古代生物の骨や人類のミイラなどを発見したのも束の間、
生きたマストドンの群れと、それに対峙する巨人の出現が恐怖の頂点である。
(「憑かれた女」で引用した。)

終盤は、トンネルを塞ぐ巨大な花崗岩を火薬で爆破した衝撃で、
大量の海水と共にイカダが流され、次第に地底ではなく地上の方へ、
真っ暗ななか、時速50キロでで持ち上げられる。
そして遂に、噴火口から吹き飛ばされて、何とか地上にたどり着く。

アイスランドの荒涼とした地と旧火山の噴火口から始まった探検は、
イタリアはストロンボリ島の活火山から脱出して、大団円を迎える。

いや、それは大団円だったのか。
彼らは、目指していた地球の中心地へ行けないのである。

それでも、この冒険者たちのすがすがしさはどうだろう。
様々な困難を乗り越えて、北の国から南の島へ到達した、
その達成感が感じられる。
大学の先輩は、子供のころ同じ本を読んで、
「あれは地球の中心へ行けなかったところがよい」と言った。
それもまた、ひとつの見方だと思う。

***

この本は児童書であり、随所に挿絵があるが、それがまた臨場感を高める。














画家は司修。好きな画家であり、文筆家である。
この本の挿絵は、いま見ても素敵な絵が多い。

ただ、岩の爆破から噴火口へ昇っていく過程の3枚の挿絵は、
他の絵とトーンが異なっている。人物表現が突然リアルになるのだ。

謎が解けたのは、この本を買って10年くらいあと。
愛読するもう1冊のヴェルヌ著作、「海底二万海里」の挿絵から、
人物をコラージュしていたのだ。
「海底二万海里」挿絵
(同上)
高校時代のあるとき、「地底の探検」の2枚の挿絵が、
ネモ船長であることに気づいた。
そして確かめるうちに、岩の爆破シーンで身を伏せている人物が、
なんと、南の島で極楽鳥をつかまえるコンセーユであることが判明した。
あのときは、まったく面白くて大声で笑った。

「海底二万海里」挿絵
司修は、仕事の終盤に来て、手抜きをしたのだと思っている。

さて、「地底の探検」の冒険者は、前述の若者アクセルと、
その伯父のリーデンブロック博士、そして従者のハンスである。
それぞれの個性が面白い。そして、この3人の個性は、
そのまま「海底二万海里」の3人に受け継がれている。

常識的な観察者で、語り部となるアクセルとアロナックス。
情はあるが、短気で気難し屋のリーデンブロックとネッドランド。
無口で忍耐強い従者のハンスとコンセーユ、である。

登場人物で特筆すべきは、リーデンブロックで、
好きなポール・デルヴォーの展覧会で、
彼が何枚の絵にも登場していた。

ポール・デルヴォー 「月の位相Ⅱ」

司修の絵とは異なるのは当然だが、あまりに個性的で若いイメージのため、
しばらくはデルヴォーが創作したのだと思っていた。
ところが、文庫本の原著を見直したところ、冒頭にそのままの姿が載っていた。
画家、エドゥアール・リウーの創造だったのである。

「地底旅行」 エドゥアール・リウーの挿絵




2016年1月23日土曜日

溶け出す光に魅入られた画家 高島野十郎

最初に目にした絵は、焔をあげる短いろうそくだった。
それらが何枚もあるという。

それぞれのろうそくは、闇のなかや、
焔によってほのかに明るくなった空間のなかで、
いずれも孤独さをたたえながら焔を揺らす。

ろうそくの胴体よりも、焔の方がずっと長い。
いずれも、芯の根元はかすかに青く、
芯のまわりは、卵型にやや暗い。
そして、その中心部から上へ焔が伸びて、
鮮やかな黄色で燃え上がり、先は赤く染まっている。
また、焔のすぐ外側には、蝋が気化したような
赤い霧状のものが見える。

焔はチチチと高温で燃えているが、景色は暖かではなく、
その描写は寂寥を醸している。





これらのろうそくの絵に惹かれ、高島野十郎の画集と評伝を買った。
2008年のことだ。

本屋で画集をめくり始めて目に入ったのは、冒頭にある月夜の絵たちだ。

夜空に、煌々と満月が照っている。
空は、月の光が溶け出て、漆黒ではなく、
群青だったり、薄墨だったり、深緑だったりする。

丁寧に塗られた夜空を背景に、満月がぽんと浮かぶ絵。
月は輪郭線があるにせよ、ろうそくの焔と同様に、
そのまわりは白く霧状に描かれている。




高島は、なぜこのような絵を描いたのか。

ろうそくの焔といい、夜空の月といい、
暗さのなかに浮かび上がる光がモチーフである。
彼は、身近な対象のなかから、そのような光を放つ物体を
描きたかったのではないか。

もうひとつ、彼は太陽も描いている。
照度の高さ故に、その輪郭線はほどんどなく、
黄色い放射状のグラデーションである。
画集のどの絵も、林や草山の向こうに照り輝く光が見られ、
まるで隕石が爆発した直後のようだ。
それらの絵は孤高ながら、ろうそくや月夜とは異なる、
激しさや力強さを感じる。


ただ、3つのテーマの共通点は、光を放つ物体を対象とし、
それらの光があたりに溶け出しているさまを描いていることにある。

高島は、光が放たれて辺りに溶け出す光景に魅入られたからこそ、
幾枚も同じテーマで描いたのだと思う。

・・・

彼は、風景画や静物画を多く描いた。その描写は精緻で丁寧だ。
東京大学で水産学を学んだという、その観察眼が
そのようなタッチを産んだという。
画集を眺めていても、魅力的な絵が多い。

「秋たけなは」
「早春」
高島が文章を徒然に書いたノートが残されている。
そのなかの歌を引用する。

花は散り世はこともなくひたすらに
たゞあかあかと陽は照りてあり

2016年1月17日日曜日

2種類の壮大なドラマ ホルスト「惑星」

中学2年のとき、自分のこずかいで、初めてLP盤を購入した。
駅前のレコード店から高揚した気分で帰るとき、
同じクラスの友人に出会って、けげんな顔をされたことを覚えている。

ホルスト作曲 富田勲編 組曲「惑星」。
父がラジオから録音した曲の断片を聴き、ぜひ入手したいと思ったのだ。
その頃のこずかいのおよそ1か月分近くかかった。

富田勲編「惑星」ジャケット

それから何回、このレコードを聴いただろう。
中学のころは、ラジオからカセットテープに録音した映画音楽や
ジュリーアンドリュースなどしか聴かず、
レコードは、もっぱらこれ1枚だった。

母に聴かせたときに、「これが本当の音楽だと思わないで」と
言われたことも思い出す。

ただし、これは正真正銘の音楽だ。それも、とてもドラマ性が高い。
いま聴いても、とても面白い。古びていない。
クラシック音楽に本格的に触れる前に聴いたので、
宙返りするような電子音やセリフ回しのような音遊びが
邪道に思えなかったのだろう。
むしろ、映画「猿の惑星」などで、電子音の効果は格好いいと思っていたので
この音楽の豊穣でダイナミックなイメージを喚起する力に惹かれた。

富田勲編「惑星」ジャケット裏


富田編の組曲のなかで、断然好きだったのは、「金星」だ。

「火星」の終了部、ロケットの噴射音と信号音が重なり、徐々に消え入る。
一瞬の沈黙のあと、女性の歌声と弦楽を思わせる音色が聴こえ、
続いて、ハープとハーモニカを背景に、眠たげな電子音が主旋律を奏でる。

ときに本物の楽器のような、ときに歌声や口笛のような、
ときに夢のなかにいるような不思議な音がさまざまなイメージを伝えてくる。

クライマックスは、弦楽の連なりからパイプオルガンが高らかに鳴り響き、
素晴らしいハープの音に、不可思議な電子音がメロディを奏で、
弦のオーケストレーションと共に清澄になっていき、高揚する。
そしてチェレスタと鉄琴が加わり重奏しながら、遥か高みへと昇っていく。
幻想的で素晴らしいドラマだ。

ジャケット裏(拡大);富田勲の肖像

大学に入ってからオーケストラの「惑星」を聴き始めた。
最初に買ったレコードは、ズービン・メータ指揮。
シンセサイザーに慣れた耳に、「金星」などは朴訥な音に聞こえた。
ただ、聴き込むにつれて、オーケストレーションの
重厚さ、煌びやかさもわかってきた。

富田編と比べて、特にオーケストラがよいのは、「木星」だ。
シンセサイザーのような遊びをせず、最初から圧倒的な迫力で快走する。
そして、有名な中間部の旋律は、あくまで雄大で美しい。
そのクライマックスは長く、幸福な気持ちに包まれる。
いったんは落ち着くが、また冒頭部が始まり高揚し、
最後は中間部の旋律が壮大にフィナーレを飾る。

ただ、好きなのはやはり「金星」だ。
そして、それと双璧なのが、冒頭の「火星」である。

叩きつける5拍子のリズム。ユーフォニウムの高らかなソロ。
激しい曲調であるのに、不思議と胸が高鳴る。
富田編の「火星」は、オリジナルとはまったく異なる曲である。

長らくよく聴いたのが、ウィリアム・スタインバーグ指揮、ボストン交響楽団のCDだ。
この「火星」は、テンポが恐ろしく速い。この演奏で、第1楽章が好きになった。
その後、エイドリアン・ボールト盤を買ったが、テンポが遅く、もの足りなかった。

ウィリアム・スタインバーグ盤
エイドリアン・ボールト盤

先月、念願の「惑星」のコンサートを聴くことができた。
素晴らしい演奏だった。

冒頭の「火星」から胸が高鳴り続け、
「金星」では涙を抑えることができなかった。
「水星」のコケットさに救われ、
「木星」を聴き終えたときは、あまりの高揚に深いため息をついた。
「土星」で重苦しい気分を存分に味わい、
「天王星」では宇宙戦隊のような広大なイメージを描いた。
終楽章の「海王星」では、静かな夢の幻想世界に入り、
最後の女性コーラスが消え去り、会場を沈黙が支配するまで
目も心も涙を流し続けた。

亡くなった映画評論家の荻昌弘は、富田編レコードに解説を寄せ、
最後に以下の言葉で結んでいる。
「・・・ふっと、涙ぐんでしまうのだ。富田勲の、
この目もくらむ創造の軌跡を、ふりかえって。」

まったく同感である。

ホルストの「惑星」は、オーケストラ曲と富田編曲では
まったく異なる音楽である。
そして、どちらにも思い入れが深い。

2016年1月11日月曜日

モダンの象徴 ~モニュメントのある景色~

北海道へは、旅行で1回、仕事で4~5回行った。
最後に行ったのは10年以上前。最近は縁がない。

それでも、千歳空港から札幌へ向かうときの、
ある景色がいまだに心を捉えている。

それは、千歳線の車窓から、札幌の手前で見ることができる。
行く手の右側のかなたに森が広がり続くなか、
その向こうに高い塔が立っているのだ。

その景色を見るたびに、ああ、北海道へ来たんだ、と思える。
そして、なぜか懐かしさを思わせる。



広々とした芝生や長く続く森のなかに、モニュメントが建つ景色。
おそらくそれは、僕が生まれた団地街を思い起こさせるからだと思う。

そのことは、いま書いていて、初めて気がついた。

そういえば、山形で当てもなく寄った公園で、
林や芝生に囲まれて、野外舞台があって、
なんとなく惹かれて写真を撮った。


なぜ惹かれるのか、今となれば、解かる気がする。
形は異なるが、屋外の舞台が、故郷の広い団地のなかにあったのだ。

塔や野外舞台は、モダンな建造物だ。
このモダンな感覚こそ、これらモニュメントが象徴するものだと思う。

2016年1月2日土曜日

深夜の儀式 ドビュッシーの3枚のレコード

高校のときに、自宅のクラシックレコードを聴き始めたことは昨年書いた。
リパッティのグリーグPコン(2月掲載)と、コリンズ指揮シベリウス2番(6月掲載)は、
1年生で出逢い、いまだに愛聴する2枚だ。

そして、高2の秋口から聴き始め、深く惹かれるようになったのは、
ドビュッシーのピアノ曲だ。

それまでは、オーケストラが主体の曲がよいと、なんとなく思っていた。
たぶん、部活を夏で辞めた余裕もあったのだろう。
それまで聴かなかったレコードにも針を落とした。
そのなかに、ドビュッシーの3枚も含まれていた。

作曲家の名前は知っていたが、聴くのは初めて。
すぐに、自分の感性に合う、素敵な世界が開けるのを知った。
そして、ピアノ1台で、このような絢爛たる幻想や胸に沁みる抒情を
奏でることができるのだと驚いた。

その年の秋の初めから終わりにかけて、
土曜日の深夜に、無常の愉しみの時間をつくった。

まず、寝るばかりの状態に支度をする。
そして、日付が変わる0時に、蛍光灯を暗くして
オレンジの小さな灯りだけにする。

エーテルが溶け出しているような部屋のなかで、
スピーカーに向き合うように椅子に座り、
ドビュッシーの3枚のレコードを聴くのだ。

1枚目は、ギーゼキング。
A面は「映像」1・2集、B面は「ピアノのために」、「版画」である。
W・ギーゼキング 「映像」など
「映像」の冒頭が、「水に映る影」。
おぼろ闇の中にきらめく滴が、水面にいくつもの影をつくり、
波紋が光りながら拡がる。この繊細な音たちに、いつも酔う。
ドビュッシーのピアノ曲で最高傑作のひとつ。

次の「ラモー礼賛」は、東洋的な調べと、遥かな幻視と、
ドラマティックな展開が堪らない。
ほかの3曲も愛着があるが、2集の最後を飾る「金色の魚」は、
黄金に光る魚が本当に眼の前で跳ね踊るかの如くで、
ゴージャスな夢をみさせてくれる。

この盤は比較的B面が地味であるため、しばらくすると
こちらを先に聴いて、お楽しみのA面を後回しにするようになった。



2枚目もギーゼキングで、「前奏曲集第1巻」。
豊かなイメージのドラマが繰り広げられる。
W・ギーゼキング 「前奏曲集第1巻」
1曲目の「デルフの舞姫」。
たおやかな調べと高音の響きの調和のなかに、胸に迫る夢幻性がある。
2曲目の「帆」。
帆に映る光が、時とともに移ろうさまが感じられる。
やはり高2の秋に展覧会で観た絵の色を、いつも思い出す。
フェリックス・ジーム「ヴェネチアの帆船」
3曲目「野を渡る風」。これも同じ展覧会の絵が浮かぶ。
ちょうど同じ時期に吸収した音楽と絵画とが、イメージとして結びあった。
クロード・モネ「トルーヴィルの海岸」
4曲目の「夕べの大気に漂う音と香り」。
水辺にある貴族の邸。2階のテラスに誰もいない白いテーブルあり、
そのうえに洋燈が灯もり、ほのかな香を焚く匂いが漂う。
夕焼けが残る空はゆっくり溶暗する。

5曲目「アナカプリの丘」。一転して、陽気な妖精が丘を速駆ける。
ワインを含んだ彼らは、飛んで跳ねて、最後には花火のようにはじけ散る。

6曲目「雪の上の足跡」。ポツンと残る足跡に、雪が静かに降り積もる。
けだるく、消え入るようにA面を終える。

B面の最初、「西風の見たもの」。
ほとんど暴力的な、荒々しい風が、自らの猛威の結果を眼前に視る。

荒ぶる感情が去り、次のポーンという一音が響く。
続いて、可憐で切ないメロディが流れる。
「亜麻色の髪の乙女」は、同級生がエッチングで描いた
少女の像を思い出させる。
駒井の回に登場した自作の版画を彼に提供したのに、
あの少女の絵をなぜ貰わなかったのか。

9曲目の「とだえたセレナード」は不吉な想い。
夢は現実へと変わる。

そして、クライマックス。
太古に沈んだイスの国が、霧のなかに浮かび上がる。
寺院の僧侶たちがもつ灯がおぼろにきらめく。
そしてまた、すべては静かに沈んでゆく。
「沈める寺」の一場の夢のシーンを、何度思い浮かべたことか。
二重構造の夢。輪廻をも感じさせる楽曲。

「パックの踊り」は、大袈裟なドラマを揶揄するかのような
少しシニカルでコケットな曲。
そして、「ミンストレル(吟遊詩人)」の軽やかなユーモア。
この一連のドラマは、こうして愉快な夢の思い出のうちに終える。



最終3枚目のレコードは、モラヴェッツ。
何度聴いても、あの音の響きは驚異だった。
I・モラヴェッツ「ドビュッシー リサイタル」

「子供の領分」の1曲目、「グラドゥス・アド・パルナッスム博士」。
夢のなかに飛び回る光を追うように、
限りなく優しく、子供を可愛がる様子が浮かぶ。
この盤で初めて聴いて、そのように思ったのだが、
その後、他のピアニストのを聴けば、
みな速いテンポで練習曲風に弾く(それが正しいらしい)ので、
モラヴェッツのそれとは、まったく異なる印象の曲であった。

前奏曲集から5曲。ゆっくりしたテンポで、夢幻の世界を紡ぐ。

最後は、「月の光」。一夜のすべてを締めくくるに、ふさわしい曲。
切ないほどの情熱。夢の余韻。


・・・すべてを聴き終えると、午前3時頃になっている。

ほのかな明るさが漂う闇に、溶け出していくようなピアノの音を、
じっくりと向き合って、真剣に聴いていた。
あのように音楽を聴くことは、もうできないのだと思う。

その年の12月に自宅は越して、元々は父のものだったオーディオは
自分の部屋から無くなった。
それと共に、週末の夜の儀式のような愉しみも、無くなってしまった。

ただ、16歳の最後の数か月に、
生涯記憶のなかにとどまるであろう音とイメージを刻めたのは幸せだった。
いまだにドビュッシーは大好きだ。

素晴らしいレコードとの出会いは、亡き父の趣味のおかげ。
感謝しなければならない。