2015年3月21日土曜日

幻想文学への情熱 「ペガーナの神々」

今から15年ほど前、世紀が移り変わる数年間は、幻想小説を最もよく読んだと思う。
海外の翻訳ものが主体である。

そして、海外の幻想小説といえば、練達な案内役として、かつ翻訳者として、
荒俣宏は特別な存在である。
労多くして報われることの少ないこの稼業に、情熱をもって邁進してくれた。
彼のつけた、いくつもの軌跡をたどっていくことができた。

ちょうど横浜に単身赴任をしていたころ、
「ペガーナの神々」(ロード・ダンセイニ著、荒俣宏訳)の文庫版をよく読んだ。
定宿がある東神奈川から新横浜までの3駅の間、何度目かを読んでいて
乗り過ごしてしまったことがある。神話の世界にぐっと入り込んでしまった。
酔って乗り過ごしたことは数回あるが、素面で乗り過ごしたのは、ただ1回である。

ペガーナの神々のひとつひとつのエピソードは、
読む時期によっては、荒唐無稽に思えたかもしれない。
それをすんなり受け入れ、その世界に遊べたのも
ちょうど新たな希望に燃えて充実していたときだったからだと、今にして想う。

新たな職場で、新たな場所で、面白い仲間と、大きなビジネスを興そうとしていた。
だからこそ、創作、創造された夢のような世界が、
かえって身近に感じられたのだ。
満員電車に乗っていても、ページを開けば、心はすぐに、ペガーナへ飛翔した。


神々の逸話のなかで、ひとつだけ挙げる。
ヨハルネト・ラハイ。小さな夢とまぼろしの神である。

----

夜ごとかれは、人々を愉しませるために、小さな夢たちを送りだす。
貧民にも王侯にも。忙しさにとりまぎれて、ときおり誰が貧民で
誰が王侯だか忘れることがある。

ヨハルネト・ラハイから夢をつかわされなかった者は、
ひと晩じゅう、神のきびしい嘲笑に耐えながら眠らねばならない。

ヨハルネト・ラハイの夢が偽りで、陽の下でなされた事どもが真実なのか、
あるいは逆に、陽の下でなされた事どもが偽りで、
ヨハルネト・ラハイの夢がほんとうは真実であるかどうかは、
マアナ・ユウド・スウシャイをのぞいてだれも知らない。
そしてマアナは、人間のことばをけっして語らない。

----

単身赴任を終えてから、創土社の単行本と
1911年刊の原書を手に入れた。
原書のシドニー・ハーバート・シームの挿絵が、すばらしい。

THE DREAM OF MANA-YOOD-SUSHAI

SLID


荒俣宏は、いまはもう、幻想文学の世界にいない。

「・・幻想文学は飽きあきするほど読んだ。
今ではぬかみそ女房のごとくすこしわずらわしい存在になってもいる。
好きとか嫌いとかいう基準で読める時代は終わったのである。
すでに、幻想文学界の慈善事業家であろうとする気がなくなったから、
このジャンルが滅びても悲しみはしない。すべてが止まった。・・・」

荒俣宏のこの文章を、少し哀しい気持ちで読んだ。
僕も年月を経るにしたがい、興味が多用化し、
また、幻想小説を読んで心躍る経験がかなり減ってきている。

ただ、幻想文学のもつ魅力に、いまだ希望はもっている。

"IT"

THE SHIP OF YOHARNETH-LAHAI

0 件のコメント:

コメントを投稿