甲府に、しびれ湖、四尾連湖という山上湖がある。
昭和4年の春、若者がひとり、湖畔に掘立小屋を立て
独居自炊の生活を始めた。
野沢一。商家の長男で大学3年、25歳。
それが家を継ぐでもなく山に入り、
豊かな自然に親しみ、本を読み、詩をつくった。
父親の寛大な理解を得、小遣いをもらい
山を下りるまでの4年間、モラトリアム生活を果たす。
自らを木葉童子(こっぱどうじ)と称し、
自然のなかで幼児に帰ろうとしていた。
「ほうれん草」という詩が好きだ。
その詩に描かれているのは、木葉童子の冬の日の回想である。
童子は、のこぎりと手斧で薪をつくり、
それを背負って森をとおり、淋しい藁屋の戸をあける。
中はまっくら。ねずみがいたずらをしていたり、
誰か持ってきた手紙がほんのり白く見えることもある。
風があれば、天井の葦草が音を立てる。
私はそこで炉の前にあぐらをかいて
やがて松の芯で
火をたきつける
その火のもえ初めときの
たのしさこそは喜びなるかな
腹がすいた彼は、鍋に湯を沸かす。
焔は鍋のしりから丸く別れて、赤くやわらかく
鍋蔓の上まで這い上がる。
その焔の色としびれに吹く風のふたつだけは、
自分のものであったのだと彼は思う。
そのうちに湯がにえこぼれる
チチチ、ザーと小さいはいかぐらがいくつも立つ
そこでふたをとって
青々としたほうれん草を入れる
赤い火に照らされて
ほうれん草はほんとうに
綺麗に見えましたるなり
やがてその盛り上がりが平たくなる
よい時分だと思って、それを
竹ばしですくい上げて
ねずみのくつた破れたざるに入れる
その後には湯が白い泡をたてて
巻きかえり、にえ上がり
気持ち良い湯気は
炉の火のちらつく屋根裏にまで
引きなびいて
この小屋を遠い日の幼児の春にしてくれる
童子は鍋を下ろし、ほだをよいあんばいにする。
火は喜ぶようにたのしく燃えてくれる。
可愛いいものは火なるかな
まるで吾が子のように思われてならぬ
彼は、ほうれん草をしぼり、釜ごとのごはんで
ささやかな晩さんをとる。山小屋でひとりの晩ごはん。
四月にはわらびの葉、六月には蕗の茎、
秋にはきのこを食べたそうな。
こうしてこのいろりばたに
日が六年たつて行った
湖の水をのんで
風をひきよせながら
寒々と私はやっと
秋のなつかしさを拾い集める
これを書いた作者は、すでに山を下りていて、
山に在りし日をなつかしく思い出している。
商家の父を手伝いとはいっても実業にはなじめず、
図書館通いをしながら、自然に抱かれた日を想い返す。
「夕暮に」の一節。
夕暮を明るくする「力」と
夕暮を暗くする「力」と
なつかしい しばし落ち行く
露の不思議に
このいちののしばしを触れしめよ
そして、秋の夕べに彼は、
見えざるも、大きなあたたかい存在を感じる。
おんみを見る
秋は山にみちたり
日向ぼくりして
古き秋を思えば
心は還らず
草は流れて
くれないの陽の窓辺の
黄菊に
人は目もあたたく
あたたかき
かの 青空を仰ぐなり
そして、いつしか、その見なれざる存在に抱かれ、
童子は静かなあたたかな世界へ往ってしまうのだ。
小川未明の「金の輪」のように。
許容
還り行く日の来ん時は
ものみなに許しを乞うて
草木の影をふまず
風をかぞえず
好める火と水をなつかしみつつ
虫を思い
やがて
静かなる雲に入り
見なれざるひとの胸に消えんかと思う
41歳で病死する最期まで、彼は童子だったのだろう。
「木葉童子詩経」(文治堂書店) |
僕に「木葉童子詩経」の存在を教えてくれたのは、
高田宏著「自然誌」(副題「ネイチャーライティング」)だ。
この本のおかげで、ほかにも数冊の出会いや再会ができた。
今回は、この「自然誌」と「木葉童子詩経」のあと書きの
一瀬稔氏の文に多くを追った。
「自然誌」(徳間書店) |
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