2016年1月2日土曜日

深夜の儀式 ドビュッシーの3枚のレコード

高校のときに、自宅のクラシックレコードを聴き始めたことは昨年書いた。
リパッティのグリーグPコン(2月掲載)と、コリンズ指揮シベリウス2番(6月掲載)は、
1年生で出逢い、いまだに愛聴する2枚だ。

そして、高2の秋口から聴き始め、深く惹かれるようになったのは、
ドビュッシーのピアノ曲だ。

それまでは、オーケストラが主体の曲がよいと、なんとなく思っていた。
たぶん、部活を夏で辞めた余裕もあったのだろう。
それまで聴かなかったレコードにも針を落とした。
そのなかに、ドビュッシーの3枚も含まれていた。

作曲家の名前は知っていたが、聴くのは初めて。
すぐに、自分の感性に合う、素敵な世界が開けるのを知った。
そして、ピアノ1台で、このような絢爛たる幻想や胸に沁みる抒情を
奏でることができるのだと驚いた。

その年の秋の初めから終わりにかけて、
土曜日の深夜に、無常の愉しみの時間をつくった。

まず、寝るばかりの状態に支度をする。
そして、日付が変わる0時に、蛍光灯を暗くして
オレンジの小さな灯りだけにする。

エーテルが溶け出しているような部屋のなかで、
スピーカーに向き合うように椅子に座り、
ドビュッシーの3枚のレコードを聴くのだ。

1枚目は、ギーゼキング。
A面は「映像」1・2集、B面は「ピアノのために」、「版画」である。
W・ギーゼキング 「映像」など
「映像」の冒頭が、「水に映る影」。
おぼろ闇の中にきらめく滴が、水面にいくつもの影をつくり、
波紋が光りながら拡がる。この繊細な音たちに、いつも酔う。
ドビュッシーのピアノ曲で最高傑作のひとつ。

次の「ラモー礼賛」は、東洋的な調べと、遥かな幻視と、
ドラマティックな展開が堪らない。
ほかの3曲も愛着があるが、2集の最後を飾る「金色の魚」は、
黄金に光る魚が本当に眼の前で跳ね踊るかの如くで、
ゴージャスな夢をみさせてくれる。

この盤は比較的B面が地味であるため、しばらくすると
こちらを先に聴いて、お楽しみのA面を後回しにするようになった。



2枚目もギーゼキングで、「前奏曲集第1巻」。
豊かなイメージのドラマが繰り広げられる。
W・ギーゼキング 「前奏曲集第1巻」
1曲目の「デルフの舞姫」。
たおやかな調べと高音の響きの調和のなかに、胸に迫る夢幻性がある。
2曲目の「帆」。
帆に映る光が、時とともに移ろうさまが感じられる。
やはり高2の秋に展覧会で観た絵の色を、いつも思い出す。
フェリックス・ジーム「ヴェネチアの帆船」
3曲目「野を渡る風」。これも同じ展覧会の絵が浮かぶ。
ちょうど同じ時期に吸収した音楽と絵画とが、イメージとして結びあった。
クロード・モネ「トルーヴィルの海岸」
4曲目の「夕べの大気に漂う音と香り」。
水辺にある貴族の邸。2階のテラスに誰もいない白いテーブルあり、
そのうえに洋燈が灯もり、ほのかな香を焚く匂いが漂う。
夕焼けが残る空はゆっくり溶暗する。

5曲目「アナカプリの丘」。一転して、陽気な妖精が丘を速駆ける。
ワインを含んだ彼らは、飛んで跳ねて、最後には花火のようにはじけ散る。

6曲目「雪の上の足跡」。ポツンと残る足跡に、雪が静かに降り積もる。
けだるく、消え入るようにA面を終える。

B面の最初、「西風の見たもの」。
ほとんど暴力的な、荒々しい風が、自らの猛威の結果を眼前に視る。

荒ぶる感情が去り、次のポーンという一音が響く。
続いて、可憐で切ないメロディが流れる。
「亜麻色の髪の乙女」は、同級生がエッチングで描いた
少女の像を思い出させる。
駒井の回に登場した自作の版画を彼に提供したのに、
あの少女の絵をなぜ貰わなかったのか。

9曲目の「とだえたセレナード」は不吉な想い。
夢は現実へと変わる。

そして、クライマックス。
太古に沈んだイスの国が、霧のなかに浮かび上がる。
寺院の僧侶たちがもつ灯がおぼろにきらめく。
そしてまた、すべては静かに沈んでゆく。
「沈める寺」の一場の夢のシーンを、何度思い浮かべたことか。
二重構造の夢。輪廻をも感じさせる楽曲。

「パックの踊り」は、大袈裟なドラマを揶揄するかのような
少しシニカルでコケットな曲。
そして、「ミンストレル(吟遊詩人)」の軽やかなユーモア。
この一連のドラマは、こうして愉快な夢の思い出のうちに終える。



最終3枚目のレコードは、モラヴェッツ。
何度聴いても、あの音の響きは驚異だった。
I・モラヴェッツ「ドビュッシー リサイタル」

「子供の領分」の1曲目、「グラドゥス・アド・パルナッスム博士」。
夢のなかに飛び回る光を追うように、
限りなく優しく、子供を可愛がる様子が浮かぶ。
この盤で初めて聴いて、そのように思ったのだが、
その後、他のピアニストのを聴けば、
みな速いテンポで練習曲風に弾く(それが正しいらしい)ので、
モラヴェッツのそれとは、まったく異なる印象の曲であった。

前奏曲集から5曲。ゆっくりしたテンポで、夢幻の世界を紡ぐ。

最後は、「月の光」。一夜のすべてを締めくくるに、ふさわしい曲。
切ないほどの情熱。夢の余韻。


・・・すべてを聴き終えると、午前3時頃になっている。

ほのかな明るさが漂う闇に、溶け出していくようなピアノの音を、
じっくりと向き合って、真剣に聴いていた。
あのように音楽を聴くことは、もうできないのだと思う。

その年の12月に自宅は越して、元々は父のものだったオーディオは
自分の部屋から無くなった。
それと共に、週末の夜の儀式のような愉しみも、無くなってしまった。

ただ、16歳の最後の数か月に、
生涯記憶のなかにとどまるであろう音とイメージを刻めたのは幸せだった。
いまだにドビュッシーは大好きだ。

素晴らしいレコードとの出会いは、亡き父の趣味のおかげ。
感謝しなければならない。

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