若者が、殺風景な街路に立っている。
その人物は、画面を圧するほど大きい。
黒い国民服が、白く曇った空に映える。
どこか哀しげな表情だが、口元は締まっていて、
立ち姿全体に決意が見える。
制作は戦時中だと理解したが、そのときは、
画家の自己顕示欲が強いのだ、くらいに思い、やり過ごした。
しばらくたって、その画家は松本竣介であること、36歳で夭折したこと、
そして、心に残る絵を何枚も残したことや、雑誌の編集をしたことなどを知った。
13歳で聴覚を失ったが、まったくそれを感じさせることがない。
絵画も文筆も、豊かな知性を感じさせ、感性はモダンそのものだ。
若いころから、しっかりした線で構成される建物や人物を描いた。
それらの絵も好きだが、特に惹かれるのは、
街の風景をコラージュした、一連の作品だ。
「街」(1938年) |
「序説」(1939年) |
味わい深く、またノスタルジックに描いている。
東京という都会を描写したので、ほとんどの人物は洋装で、
コンクリートの建物が必ず描かれているのも、モダニズムを感じさせる。
また、清新さを感じさせる、風景や建物の絵が何枚かある。
それらに使われている緑や青は、深く澄んでいて、本当に美しい。
「郊外」(1937年) |
「白い建物」(1941年) |
ただ、松本竣介の絵は、色調を抑え、沈んだ色合いのものが多い。
街の景色は一様に静かで、透徹した画面である。
これらは、深く心に残る。
「Y市の橋」(1943年) |
「並木道」(1943年) |
彼は、聴覚障害で招集は免れたものの、疎開をせず、
しだいに戦火が迫る東京にとどまった。
妻と子をもち、生活者の目線で、しかも世俗に堕することなく
困難な時代に、意欲的に創作を続けた。
昭和16年には、美術雑誌に掲載された、
文化統制を是とする軍人たちの座談会記事に反論して、
「生きてゐる画家」という文章を同じ雑誌に掲載した。
まったく見事な決意表明だ。
戦後は、溶鉱炉のなかのような赤色を背景に、
戦火に焼けた景色や、太い線で立体的に構成された人物などを描いた。
それらの赤は、敗戦の鎮魂を表わす色であるとともに、
新たな前進の決意のようにも受け取れる。
彼の常に変化し続ける姿勢に、心打たれる。
「神田付近」(1946~47年頃) |
「ニコライ堂付近」(1947年頃) |
また、松本竣介は、昭和11年から12年にかけて、
「雑記帳」という雑誌を編集し、14号まで発刊した。
自由な時代ではないため、制作の苦労がしのばれるが、
それよりも、彼がこの雑誌に込めた、
文化の発展にかける意思を強く感じる。
2年前、古書店で「雑記帳」の復刻本を10冊買った。
寄稿者を見れば、今や著名人となった作家や画家が多い。
20代なかばで、これらの原稿やカットを、よくも集めたものだと思う。
彼の人脈が、ものを言ったに違いない。
それだけ彼は、スマートで多才で、魅力的な人物だったのだ。
「雑記帳」復刻本10冊 |
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