2011年8月、彼の展覧会公式カタログを書店で買った。
昭和一桁の年代に活躍した、夭折の版画家。
その感性は極めてモダンで、当時の都会の様子を見事に表現している。
「新版画表紙(1935年7月以前)」 |
「赤陽」(1934年以前) |
「夜の浅草六區(1934年)」 |
空を見上げた光景だという。斬新な発想とシンプルな構図がうかがえる。
また、「赤陽」と「夜の浅草六區」は、都会の猥雑さ、力強さ、孤独さなどが
感じられる。いずれも印象に残る、素敵作品だ。
「朝靄」(1931年) |
高架線路のガード下に、法被を着た二人の職人が歩いている。
ガードが途切れているのは、けして黒色がかすれているのではない。
靄(もや)のなかに高架が溶け込んでいるのだ。
「朝靄」というタイトルどおり、早朝の煙る空気のなか、
スタスタと二人の足音が聞こえるようだ。
またそれだけでなく、高架の力強い造形は、少しあとの活発な喧騒が予感され、
静かななかに、生きた街が感じられる。
「白ひげ橋」(1934年3月以前) |
「白ひげ橋」は、都会の自由と孤独を、鉄橋の曲線と陽に映る影で
見事に現した作品だ。
現代と違い、都会であっても空は広い。
橋を渡りながら、行き交う車や空を見る人影は、
藤牧自身を投影したと思える。
藤牧義夫は版画家であるが、墨を使った肉筆絵画の巧さは、卓越したものがある。
正確なデッサン、達者な運筆。
無駄な線が一切なく、対象を正確に、あるがままリアルに描くことができる。
「書きたいそのものを、紙にぽんとおく以外はなにもしない。
紙にはどれも、ほどよい余白があって、それが凪いだ海のようだった。」
(「君は隅田川に消えたのか」より)
「太田豊治像」(1934年) |
「飛行機」 |
画家として活躍し始めるが、1935年に突然失踪する。わずか24歳。
作品の魅力とともに、謎の行方不明に興味を覚えた。
2012年2月11日、書店で1冊の本と出会う。
「君は隅田川に消えたのか -藤牧義夫と版画の虚実」(駒村吉重 著)。
この本の前半は、彼の評伝である。
藤牧の出生時、彼の父親はすでに54歳であった。
生母を2歳で失った彼は、
つるつるに禿げ、白髭をたくわえた好々爺の父を、
深く敬愛した。懐深い父親であったという。
父が他界したとき13歳だった義夫は、その後1年あまりをかけて父の全集を編む。
そのことで、父と故郷への思いを切り、16歳の義夫は上京する。
図案家修業のかたわら、版画を出品し始め、
また21歳で新版画集団設立に参加し、その作品は徐々に認められていく。
そして、その活躍のさなかの1935年9月2日、彼は忽然といなくなる。
駒村著作の後半は、極めてミステリアスだ。
藤牧義夫が失踪する直前に会い、その作品を彼から預ったと自ら語る、
小野忠重を主軸に、ミステリーは展開する。
小野は、藤牧の2歳年長。1990年に亡くなった版画界の重鎮である。
彼は、藤牧失踪後、預った作品を発表し、彼の年譜を数回にわたりまとめている。
ただ、駒村著作によれば、小野のもとから出た藤牧版画の「七割は偽物だった」。
そして、その根拠をひとつひとつ論証していく。
たとえば、「父の像」という作品は、その父の姿を知る藤牧にしか描けないと
一般に信じられているが、それを発表した小野の矛盾点に、著作は次々と迫る。
素人であっても、藤牧版画と「父の像」ほか数点は、異なる画風であることが判る。
「父の像」 |
「将軍」と題する肖像画で、造形、刷り具合、着色の手法は、
“「父の像」とうりふたつといっていい。”
作者は、小野忠重である。
「将軍」(小野忠重:1934年) |
藤牧の失踪そのものと小野の関わりについては、明言を避けている。
そこには、状況証拠と言えるものすらないからだ。
ただ、小野は、藤牧の姉たち3人が亡くなってから初めて、
自分が最後に藤牧に会い、その作品を預ったと公表した。
それ以前の年譜には、藤牧が作品を「全部ひとの手に渡して」と、小野は書いていた。
駒村著作を通して、何かどす黒いものが、藤牧失踪の謎の前に
横たわっているのを感じた。
そして、「ゴッホの証明」(小林英樹著)を上回る興奮を感じた。
駒村著作と展覧会カタログ |
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